マクナマラが死んだ2009/07/07

マクナマラとケネディ
 ロバート・マクナマラが死んだ。
 ケネディ、ジョンソン両大統領の下で国防長官を務め、ベトナム戦争を主導したロバート・マクナマラ元米国防長官が、7月6日、ワシントンの自宅で亡くなった。93歳。
 ハーバード大で経営学を教えた後、自動車メーカー・フォードに入り社長を務めた。第2次世界大戦では兵站を担い東京大空襲の作戦にもかかわった。フォード社の社長を務めていた1961年、ケネディ大統領に請われて国防長官に就任。68年まで務めた。マクナマラ長官の下で米国は愚かなベトナム戦争にのめり込み、当初数百人だったベトナム駐留米兵の数は64年には1万7000人、68年には53万5000にも増加した。62年に旧ソ連のミサイル基地建設に関し米ソが対立したキューバ危機に対応し、統計など経営手法を用いて軍の予算改革などに取り組んだ。
 95年に出版した回顧録『ベトナムの悲劇と教訓』では、「ベトナム戦争における決定に参加した米国の幹部たちは…間違った。非常に恐ろしい過ちを犯した」と書いた。国防長官を辞任後、81年まで世界銀行総裁を務めた。

 僕にとって、マクナマラと言えば、アメリカの核ドクトリンの基礎を築いた人間、相互確証破壊(MAD)の狂気の均衡を制度化した人間という印象が強い。1960年代という米ソ核軍拡競争が最も激しかった時代に国防長官として核戦略と、核戦力について重要な決定を行なったのである。

柔軟反応戦略…拡大抑止ドクトリンの確立
 まず、マクナマラは大量報復戦略のように、通常戦争が直ちに核戦争に移行する戦略は危険と考え、ソ連の通常戦力攻撃にNATOはなるべく通常戦力で対応すべきとした。西欧はコスト面からマクナマラ提案に反対し、アメリカの核の傘に依存する大量報復戦略型の抑止に固執したため、米欧間での激しい議論を起こした。結果的に67年に「柔軟反応戦略」がNATOの公式戦略として採用される。柔軟反応戦略はソ連が西欧に通常戦力で攻撃してきた時は、NATO側は可能なかぎり通常戦力で抵抗し、それでもソ連側を食い止められないと判断された時は、西欧の戦術核兵器の使用に踏み切り、最終的には米本土から戦略核を発射するというもの。「通常戦力による抵抗→戦術核の使用→戦略核の使用」というエスカレーションの対応を平時からソ連に伝えることによって、ソ連の侵略を抑止するわけだ。
 西欧諸国の生存とアメリカ対ソ核使用威嚇とをリンクさせるカップリングによる抑止戦略をフランス以外の西欧諸国は受け入れた。ドゴールのフランスはNATO軍事機構から脱退し、独自の核開発の道を選んだ。西欧をソ連から守るためのアメリカの戦略である柔軟反応戦略は「拡大抑止」と呼ばれ、日本など西側同盟国を守る「核の傘」として体系化され現在に至っている。

戦略抑止と相互確証破壊(MAD)の制度化
 米ソ二国間の核抑止である「戦略抑止」についてもマクナマラの下で大枠が形成された。マクナマラは、まずソ連の核攻撃からアメリカが被る損害を最小限に抑える方法を模索した。いわゆる「損害限定」政策である。損害限定のために最初に考えられた方法は、有事の際にソ連の核戦力をアメリカの核攻撃で無力化する「カウンターフォース」戦略であった。カウンターフォース戦略は、先制核攻撃能力を追求することと同じで、核軍拡競争をエスカレーションさせ、国防予算の膨張圧力を高めるとして、トーンダウンした。次に検討されたのは「民間防衛計画」である。マクナマラは、核戦争に備えた各種の防衛策や避難訓練等を考えたが、アメリカ市民はプライバシー等の面から抵抗感が強く、実際には難しかった。
 1960年代の米軍は、ソ連のミサイルを迎撃する弾道弾迎撃ミサイル(ABM)の開発を進めていたが、マクナマラはこれにより米ソ間の軍拡競争がさらに激化することを懸念して消極的であったといわれている。
 結局、マクナマラは核攻撃に対する防御の可能性をすてて米ソが相互に核攻撃に対して脆弱な状態を保つことを前提にして、核攻撃を受けるリスクを避けるために相互に核戦争回避を追求させるという、核抑止体制を理論化した。これが「確証破壊」戦略である。
 マクナマラの定義した確証破壊は、ソ連から核攻撃を受けた後に生き残ったアメリカの核戦力でソ連の人口の4分の1~3分の1、産業の3分の2を確実に破壊する能力を持つことを示せば、米ソ間の核戦争は起らない、というものである。核攻撃を受けた後でも相手に耐え難い報復を加える戦力、「生き残り能力のある第2撃力」がアメリカの核戦力規模と構成を決める理念とされ、1960年代後半にICBM、SLBM、戦略爆撃機の3種類の運搬手段と核を保持する戦略が定まったのである。
 72年に米ソが調印したSALT1によって、米ソの核戦力が均衡する水準で凍結され、同時に調印されたABM条約によって互いの防御の可能性を捨て去った。米ソが互いに確証破壊能力を持つ「相互確証破壊」(MAD)の核抑止体制が制度的に固められた。こうした互いの命に刃を突き付け合う、膠着した均衡状態の制度化の枠組みを作ったのがマクナマラだったのである。

 ニクソン政権下での「エスカレーションコントロール」(シュレンジャー・ドクトリン)も、カーター政権下での、「相殺戦略」も、マクナマラの確証破壊戦略の枠内のものである。レーガン政権は「戦略防衛構想」(SDI)によってMAD型の抑止戦略からの転換をはかったが、研究計画の段階に止まった。冷戦終結後のパパ・ブッシュ政権は冷戦終結というドラスティックな環境変化を受けた目前の課題への対応に追われ、クリント政権によって核戦略の見直しに着手された。これ以降は、まさに現代的課題。ブッシュ政権の「核先制攻撃戦略」、オバマ政権の「核不拡散」への傾斜と究極的核廃絶宣言へとつながっている。

 結局、マクナマラの核ドクトリンが40年にわたって世界を支配してきたとも言えるわけです。どんな問題にも答えを見つける傲慢な「人間計算機」、ベトナム戦争の「戦争犯罪人」、すぐに泣く「泣き虫男」…。複雑怪奇な人間だったようだ。もちろん僕は会ったこともないのだけど、一度話を聞いてみたかったな。
 合掌。

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