森瀧市郎:「核絶対否定」を貫いた哲学者 ― 2009/05/09

自分が影響された人といえば、最初にあげなくてはならないのはやはり森瀧市郎先生でしょうか。
森瀧先生は日本の平和運動における第一人者であり、核実験や戦争に抗議して平和公園で座り込むその姿は、被爆都市ヒロシマの象徴と言われました。被爆によって右目を失いながら、遠く核のない未来を見つめ、反核・平和、ヒバクシャ運動に力を尽くされたその人生が、原水禁運動の歩みそのものであることを否定する人はいないでしょう。
僕が東京の原水禁国民会議の事務局で働きはじめた1987年頃は、森瀧先生はすでに80代後半のご高齢だったうえ広島にお住まいでしたらから、生の森瀧先生と接した機会はそれほど多くはありません。たまにお会いしても、相手は原水禁運動の象徴的指導者、こちらはぺーぺーのバイト学生ですから気軽に話しかけるわけにもいかず、「あ、生森瀧だ!」と思いながらドキドキしていたのが関の山でした。本当はもっと根掘り葉掘り聞きたいこともたくさんあったのだけど、なかなかそこまではできなかった。それでも末席で同席させてもらったり、ご一緒させていただくときもあって、そのオーラに圧倒されたものです。
最初はみんな持ち上げるけどただのじいさんじゃないの?と思っていたけど、そのうち下手なこと言ったら「ダマラッシャイ」と杖で一喝されそうな気難しい老学者先生に見えてきたりして、結局、そのどちらも森瀧先生だったのですね。「核」につながるものに徹底して厳しく、人間として共に生きようとするすべての人に優しく、時には頑固な老哲学者であり、いつもは普通のおじいさん。ただただ核と闘い抜いたその信念と生き様が、多くの人々に影響を与えてきたのです。
おかげで僕も反核・平和をライフワークとしてやっています。かなり頼りないですが、頑張っていくつもりですから、どうか見守ってください。たまたまNHKの番組で森瀧先生の特集をしていたので、森瀧先生のことを思い出した次第です。
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森瀧市郎先生(略歴)
原水爆禁止日本国民会議議長、広島大学名誉教授
1901年 4月 広島県双三郡君田村に生まれる
1925年 3月 広島高等師範卒業
1925年 4月 広島県立三次中学校教諭に就任
1927年 4月 京都帝国大学文学部哲学科入学
1930年 3月 京都帝国大学文学部哲学科卒業
1930年 4月 京都帝国大学大学院。兼京都高等蚕糸学校(現京都工芸繊維大学)講師。
1931年 3月 京都大学大学院卒業、同年、広島高等師範教授
1931年12月 西しげと結婚、広島市白島中町に住む
1932年 6月 慢性肋膜炎のため入院(10月まで)
1943年 8月 広島市翠町に転居
1945年 8月 広島市江波町の三菱重工江波造船所の動員学徒の教官室で原爆に被爆。ガラスの破片で右目を失う
1946年 9月 被爆した目の治療のため入院
…………………………………………………………………………………………
入院生活中に「力の文明」を否定して、宗教道徳が主座につく精神文明が復位すべきだとする「慈の文化」に思い至る。
…………………………………………………………………………………………
1946年 3月 高師に単身帰任
1950年 2月 広島文理大学文学部教授に就任
1950年11月 博士学位論文「英国倫理研究」
1951年 9月 広島大学平和問題研究会発会。世話人の一人となる
1952年 8月 広島市霞町に転居
1952年12月 学位論文が文理大学教授会を通過
1953年 4月 広島大学文学部教授(文理大廃止)。
1953年 2月 広島こどもを守る会会長となる。原爆孤児の救済運動(精神養子運動)を始める。平和と学問も守る大学人の会に参加
1954年 4月 佐伯郡五日市町海老園に転居
1954年 5月 原水爆禁止広島市民大会を開催
1954年 5月 原水爆禁止を求める「百万署名」の街頭署名運動をはじめる。
1954年 7月 原水爆禁止広島県運動本部を結成、事務局長となる
1954年 8月 原水爆禁止広島平和大会で一般経過報告
1954年 9月 県民運動本部を発展的に解消し、原水爆禁止運動広島協議会」(広島原水協)を結成し事務局長となる(後に代表委員)。
1954年10月 第一回原水爆禁止世界大会の開催を原水爆禁止署名運動全国協議会の総会に提案
1955年 8月 第一回原水爆禁止世界大会が広島で開催、現地事務局長を務める
1955年 9月 原水爆禁止日本協議会(日本原水協)発足、やがてその常任理事・代表委員の一人となる
1956年 3月 最初の原爆被害者大会の開催に尽力
1956年 5月 広島県原爆被害者団体協議会を結成し理事長となる
1956年 8月 日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)発足、代表委員の一人となる
1957年 3月 イギリス・クリスマス島の水爆実験計画に抗議して慰霊碑前に座り込む
1957年 4月 原水爆実験阻止広島市民大会
1957年 8月 原水爆禁止国民平和使節として、英、独、仏、オーストリアを訪問
1957年 8月 英・北ウエールズの山荘でバートランド・ラッセル博士と会見
1957年 8月 西ドイツの核武装に反対する「ゲンチンゲン宣言」の学者と会見
1957年 9月 第三回パグオッシュ会議を実現したオーストリア大統領シェルフ博士と会見
1958年 5月 原爆の子の像除幕。募金活動に奔走
1958年 6月 広島~東京一千キロ国民平和大行進の成功に尽力
1958年 7月 中国新聞に、後年有名となる「人類は生きねばならぬ」という命題をのべた一文を発表
1960年 8月 日本被団協総会が代表委員制を改め理事長となる。被爆者援護法制定要求運動への本格的な取り組みを開始
1962年 4月 アメリカとソビエトの核実験に抗議し(大学に辞表を提出し)て17日間慰霊碑の前に座り込む(後に核実験の都度の座込みの発端)
…………………………………………………………………………………………
このとき「精神的原子の連鎖反応が 物質的原子の連鎖反応にかたねばならぬ。
…………………………………………………………………………………………
1962年 6月 ガーナの首都アクラで開催された「原爆のない世界のためのアクラ会議にエンクルマ大統領に招待され、ガーナ、ガボンのランバレネ、ギリシャを訪問
1962年 6月 赤道直下のランバレネの病院でシュバイツアー博士と会県
1963年 8月 第九回原水爆禁止世界大会で「いかなる国の核実験にも反対」というスローガンと部分的核実験禁止条約の賛否をめぐって日本原水協分裂
1963年12月 東京地裁で「原爆裁判」の判決
1964年 3月 原水爆禁止三県連絡会議(後に原水禁に発展)
1964年 4月 全地婦連、日青協、日本原水協を脱退
1964年 6月 広島県原水爆禁止協議会分裂。共産党系理事脱退
1964年 6月 佐久間澄広島大教授(原水協)、村上忠敬広島大教授(核禁会議)らとともに「談話会」をつくり、被爆20周年を翌年に控えて、政府に「原爆被害白書」をつくらせる運動を開始
1964年 6月 日本原水協理事会によって「代表委員より除外」される。
1964年 8月 「社会新報」に「被爆地の願い――社会党・総評の皆さんに訴える」を公表。「いかなる」問題に言及
…………………………………………………………………………………………
三被爆地から訴えた運動の正常化はただに国民的統一のみならず人類的国際的統一の芽さえもつところのものであって、系列化固定化は絶対望むところではない。真に被爆地から被爆者の心に立って起こる運動であれば、いずれの側のものでもなければ、いずれの国につくものでもなく、生きんとする人類すべてをつなぐ運動たりうるのである。
…………………………………………………………………………………………
1964年10月 国際協力と軍縮のためのオーストラリア会議に出席するためオーストラリアを訪問。アボリジニに対する人種差別と「核の被害」に注目
1965年 1月 肺炎にかかり2月迄、絶対安静。
…………………………………………………………………………………………
被爆20周年の決意をこめて、後に有名となる「人類は生きねばならぬ」の書き初めをする
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1965年 2月 原水爆禁止日本国民会議(原水禁)が発足、代表委員に就任(事務局長は伊藤満氏)。原水爆禁止広島県協議会代表委員となる
1965年 2月 広島大学での最終講義「平和倫理の研究と実践」
1965年 3月 広島大学新聞に「被爆20周年を期し学園関係原爆犠牲者慰霊碑を建設せよ」と提案(73年に慰霊碑建立)
1965年 3月 広島大学定年退官、広島大学名誉教授となる
1965年 4月 ソ連平和委員会の招待により被爆者平和使節団団長としてソ連を訪問
1966年 6月 日本被団協理事長に初の決戦投票(相手は日本原水協代表理事)により選出。日本被団協分裂を回避し統一を保持した
1966年11月 原水爆禁止運動三団体の賛意をうけて原爆ドーム保存の募金運動に奔走
1967年 3月 原爆被爆者特別措置に関する法律の提案にともなう日本被団協の国会請願行動の先頭に。被爆者援護法の制定を求める運動は大きく盛り上がったが、5月に成立した法律は、被爆者の要求とはほど遠いものに
1969年 7月 第61国会で参議院の社会労働委員会参考人として「国家補償としての被爆者援護法の制定」を要求(自民党は当初国家補償を含めると約束したと追求。国は被爆者対策は「社会保障」の枠内に固執
1969年 8月 原水禁世界大会・沖縄国際会議のため、はじめて沖縄を訪問
1970年 8月 日本被団協総会。自らの提案による規約改正(集団指導体制への移行)に伴い理事長を辞任
1970年11月 ヒロシマ会議(現代における平和の条件)に出席
1971年 4月 反核を訴えるため、世界一周旅行に出発。アメリカ、イギリス、西ドイツ、フランス、スウェーデン、ソ連、ユーゴスラビアを訪問。アメリカではライナス・ポーリング博士と会見。ベトナム反戦ワシントン大集会で演説
1971年11月 岩国基地撤去大集会でデモの先頭にたつ
1973年 1月 密航韓国人被爆者の広島赤十字病院入院に尽力して実現。同被爆者は後に裁判で被爆者手帳も取得
1973年 7月 フランスの核実験抗議のため座込み。以来、核実験の度毎に慰霊碑の前に座り込む
1973年 7月 桑原裁判を支援する会を結成(「認定」裁判)。
1973年 8月 広島県民集会で決意表明
…………………………………………………………………………………………
若き後継の人たちも育ち、いつ倒れてもよいと思う。命ある限りたたかう。
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1974年 5月 被爆者援護法案の廃案に抗議声明を出す。被爆証人探しをはじめる
1974年 5月 フランス核実験抗議のため、フランス、イギリス、イタリアを訪問
1974年 6月 モルロア核実験に反対している「爆弾に反対するフランス人連合」会長ボラディエール将軍をブルタニューに訪問
1974年 7月 核兵器完全禁止をめざし団結をよびかける広島の学者・文化人(12人)のアピールに名を連ねる
1974年 8月 朝日新聞の「広島と世界の往復書簡」でノエル・ベーカー博士と対話。「慈の文化」を語る
1974年 9月 焼津市で開催された原水協・原水禁両団体関係者の統一的な集会に列席
1975年 4月 非核太平洋会議出席のためフィジー訪問
1975年 4月 被爆者の特別措置法改正案を審議中の衆議院社会労働委員会で参考人として意見陳述。「国家補償の援護法」を要求(社公民共四党が保革伯仲の参議院に援護法案を提出。同法は7月に廃案
1975年 5月 アメリカの核実験に抗議してリフトン教授等と慰霊碑前に座り込む
1975年 6月 原水禁運動の統一をめざす七者懇談会(8月1日に流会)
1975年 8月 被爆30周年原水禁世界大会・広島大会で「核絶対否定」の理念をのべる
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核分裂エネルギーにたより続けたら、この地球全体がプルトニウムや放射性廃棄物の故に、人類の生存をあやうくされるのであります。私たちは今日まで核の軍事利用を絶対に否定してきましたが、いまや核の平和利用とよばれる核分裂エネルギーの利用をも否定しなければならぬ核時代に突入したのであります。しょせん、核は軍事利用であれ平和利用であれ、地球上の人間の生存を否定するものである、と断ぜざるをえないのであります。結局、核と人類は共存できないのであります。
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1976年 8月 被爆31周年原水爆禁止世界大会の基調演説で「核絶対否定の理念」を強調、核兵器も原発もない「核のない未来」の実現を訴える
1976年10月 福井県敦賀で原発反対全国活動者会議で主催者代表あいさつ
1977年 4月 2つの広島県被団協が分裂後はじめての統一集会。よびかけ人を代表して挨拶
1977年 5月 岩波書店会議室で日本原水協の草野信男理事長と「5・19合意」に署名。吉野源三郎氏ら7人が立ち合う。
1977年 8月 14年ぶりに開催された統一世界大会に出席、議長団を代表して挨拶
1978年 5月 「第1回国連軍縮特別総会」に参加するためニューヨークを訪問
1979年 3月 「ビキニ被災25周年ビキニデー広島集会」で主催者代表として挨拶
1980年 5月 「非核独立太平洋会議」に出席するためハワイを訪問。「非核太平洋人民憲章」を提案
1980年10月 「援護法制定促進広島県民集会」宮沢知事に要請
1980年12月 「原爆被爆者対策基本問題懇談会」の報告に対する抗議の県民集会で主催者として決意表明
1981年11月 「ヒロシマ語り部」としてドルムント平和集会に参加するため西ドイツを訪問。反核大集会で演説
1982年 3月 「82年・平和のためのヒロシマ行動」で演説
1982年 6月 第2回国連軍縮特別総会に参加のためニューヨークを訪問
1985年 5月 原爆白内障治療のため広島県病院に入院
1985年 6月 被爆者代表として中国を訪問。
1985年 7月 ソ連核実験に抗議して座込み(300回)
1985年 8月 「国際被爆者フォーラム」実行委員長。マーシャル、オランダ、イギリス、カナダ、マレーシアなどのヒバクシャが参加
1985年 8月 沖縄の国際連帯会議に参加
1986年 4月 85才の誕生日の翌日、仏核実験抗議の座込みの日にチェルノブイリ事故の報道に接する
1986年 8月 統一世界大会開催不可能に
1987年 9月 第1回核被害者世界大会に出席するためニューヨーク訪問
1988年 8月 「森瀧先生の米寿を祝い励ます会」開催
1989年 4月 青森県六ヶ所村で開催された「反核燃全国集会」を呼びかけ。核燃基地を包囲する「人間の鎖」の先頭にたつ
1990年 3月 原爆慰霊碑前での核実験座込みが500回に
1990年 9月 肋骨カリエスのため入院。肋骨一部切除、冷膿瘍摘出手術
1991年 4月 谷本清平和賞受賞。満90才、卒寿を迎える
1993年 7月 広島県被団協5年度総会に出席
1993年 7月 核実験抗議慰霊碑前座込み20周年記念に出席
1993年 8月 被爆48周年原水爆禁止世界大会開会総会で主催者あいさつ
1993年 8月 原爆死没者追悼慰霊式典で追悼の辞
1993年 8月 日赤原爆病院に入院
1993年11月 平和公園を散歩
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1994年1月25日、森滝市郎原水禁国民会議議長が92歳で死去
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『著書』に、『反核30年』(日本評論社刊)、『ヒロシマ40年―森瀧日記の証言』(中国新聞社刊)。共著に『非核未来に向けて』(績文堂)、『いのちとうとし』(広島県原水禁刊)など。
森瀧先生は日本の平和運動における第一人者であり、核実験や戦争に抗議して平和公園で座り込むその姿は、被爆都市ヒロシマの象徴と言われました。被爆によって右目を失いながら、遠く核のない未来を見つめ、反核・平和、ヒバクシャ運動に力を尽くされたその人生が、原水禁運動の歩みそのものであることを否定する人はいないでしょう。
僕が東京の原水禁国民会議の事務局で働きはじめた1987年頃は、森瀧先生はすでに80代後半のご高齢だったうえ広島にお住まいでしたらから、生の森瀧先生と接した機会はそれほど多くはありません。たまにお会いしても、相手は原水禁運動の象徴的指導者、こちらはぺーぺーのバイト学生ですから気軽に話しかけるわけにもいかず、「あ、生森瀧だ!」と思いながらドキドキしていたのが関の山でした。本当はもっと根掘り葉掘り聞きたいこともたくさんあったのだけど、なかなかそこまではできなかった。それでも末席で同席させてもらったり、ご一緒させていただくときもあって、そのオーラに圧倒されたものです。
最初はみんな持ち上げるけどただのじいさんじゃないの?と思っていたけど、そのうち下手なこと言ったら「ダマラッシャイ」と杖で一喝されそうな気難しい老学者先生に見えてきたりして、結局、そのどちらも森瀧先生だったのですね。「核」につながるものに徹底して厳しく、人間として共に生きようとするすべての人に優しく、時には頑固な老哲学者であり、いつもは普通のおじいさん。ただただ核と闘い抜いたその信念と生き様が、多くの人々に影響を与えてきたのです。
おかげで僕も反核・平和をライフワークとしてやっています。かなり頼りないですが、頑張っていくつもりですから、どうか見守ってください。たまたまNHKの番組で森瀧先生の特集をしていたので、森瀧先生のことを思い出した次第です。
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森瀧市郎先生(略歴)
原水爆禁止日本国民会議議長、広島大学名誉教授
1901年 4月 広島県双三郡君田村に生まれる
1925年 3月 広島高等師範卒業
1925年 4月 広島県立三次中学校教諭に就任
1927年 4月 京都帝国大学文学部哲学科入学
1930年 3月 京都帝国大学文学部哲学科卒業
1930年 4月 京都帝国大学大学院。兼京都高等蚕糸学校(現京都工芸繊維大学)講師。
1931年 3月 京都大学大学院卒業、同年、広島高等師範教授
1931年12月 西しげと結婚、広島市白島中町に住む
1932年 6月 慢性肋膜炎のため入院(10月まで)
1943年 8月 広島市翠町に転居
1945年 8月 広島市江波町の三菱重工江波造船所の動員学徒の教官室で原爆に被爆。ガラスの破片で右目を失う
1946年 9月 被爆した目の治療のため入院
…………………………………………………………………………………………
入院生活中に「力の文明」を否定して、宗教道徳が主座につく精神文明が復位すべきだとする「慈の文化」に思い至る。
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1946年 3月 高師に単身帰任
1950年 2月 広島文理大学文学部教授に就任
1950年11月 博士学位論文「英国倫理研究」
1951年 9月 広島大学平和問題研究会発会。世話人の一人となる
1952年 8月 広島市霞町に転居
1952年12月 学位論文が文理大学教授会を通過
1953年 4月 広島大学文学部教授(文理大廃止)。
1953年 2月 広島こどもを守る会会長となる。原爆孤児の救済運動(精神養子運動)を始める。平和と学問も守る大学人の会に参加
1954年 4月 佐伯郡五日市町海老園に転居
1954年 5月 原水爆禁止広島市民大会を開催
1954年 5月 原水爆禁止を求める「百万署名」の街頭署名運動をはじめる。
1954年 7月 原水爆禁止広島県運動本部を結成、事務局長となる
1954年 8月 原水爆禁止広島平和大会で一般経過報告
1954年 9月 県民運動本部を発展的に解消し、原水爆禁止運動広島協議会」(広島原水協)を結成し事務局長となる(後に代表委員)。
1954年10月 第一回原水爆禁止世界大会の開催を原水爆禁止署名運動全国協議会の総会に提案
1955年 8月 第一回原水爆禁止世界大会が広島で開催、現地事務局長を務める
1955年 9月 原水爆禁止日本協議会(日本原水協)発足、やがてその常任理事・代表委員の一人となる
1956年 3月 最初の原爆被害者大会の開催に尽力
1956年 5月 広島県原爆被害者団体協議会を結成し理事長となる
1956年 8月 日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)発足、代表委員の一人となる
1957年 3月 イギリス・クリスマス島の水爆実験計画に抗議して慰霊碑前に座り込む
1957年 4月 原水爆実験阻止広島市民大会
1957年 8月 原水爆禁止国民平和使節として、英、独、仏、オーストリアを訪問
1957年 8月 英・北ウエールズの山荘でバートランド・ラッセル博士と会見
1957年 8月 西ドイツの核武装に反対する「ゲンチンゲン宣言」の学者と会見
1957年 9月 第三回パグオッシュ会議を実現したオーストリア大統領シェルフ博士と会見
1958年 5月 原爆の子の像除幕。募金活動に奔走
1958年 6月 広島~東京一千キロ国民平和大行進の成功に尽力
1958年 7月 中国新聞に、後年有名となる「人類は生きねばならぬ」という命題をのべた一文を発表
1960年 8月 日本被団協総会が代表委員制を改め理事長となる。被爆者援護法制定要求運動への本格的な取り組みを開始
1962年 4月 アメリカとソビエトの核実験に抗議し(大学に辞表を提出し)て17日間慰霊碑の前に座り込む(後に核実験の都度の座込みの発端)
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このとき「精神的原子の連鎖反応が 物質的原子の連鎖反応にかたねばならぬ。
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1962年 6月 ガーナの首都アクラで開催された「原爆のない世界のためのアクラ会議にエンクルマ大統領に招待され、ガーナ、ガボンのランバレネ、ギリシャを訪問
1962年 6月 赤道直下のランバレネの病院でシュバイツアー博士と会県
1963年 8月 第九回原水爆禁止世界大会で「いかなる国の核実験にも反対」というスローガンと部分的核実験禁止条約の賛否をめぐって日本原水協分裂
1963年12月 東京地裁で「原爆裁判」の判決
1964年 3月 原水爆禁止三県連絡会議(後に原水禁に発展)
1964年 4月 全地婦連、日青協、日本原水協を脱退
1964年 6月 広島県原水爆禁止協議会分裂。共産党系理事脱退
1964年 6月 佐久間澄広島大教授(原水協)、村上忠敬広島大教授(核禁会議)らとともに「談話会」をつくり、被爆20周年を翌年に控えて、政府に「原爆被害白書」をつくらせる運動を開始
1964年 6月 日本原水協理事会によって「代表委員より除外」される。
1964年 8月 「社会新報」に「被爆地の願い――社会党・総評の皆さんに訴える」を公表。「いかなる」問題に言及
…………………………………………………………………………………………
三被爆地から訴えた運動の正常化はただに国民的統一のみならず人類的国際的統一の芽さえもつところのものであって、系列化固定化は絶対望むところではない。真に被爆地から被爆者の心に立って起こる運動であれば、いずれの側のものでもなければ、いずれの国につくものでもなく、生きんとする人類すべてをつなぐ運動たりうるのである。
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1964年10月 国際協力と軍縮のためのオーストラリア会議に出席するためオーストラリアを訪問。アボリジニに対する人種差別と「核の被害」に注目
1965年 1月 肺炎にかかり2月迄、絶対安静。
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被爆20周年の決意をこめて、後に有名となる「人類は生きねばならぬ」の書き初めをする
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1965年 2月 原水爆禁止日本国民会議(原水禁)が発足、代表委員に就任(事務局長は伊藤満氏)。原水爆禁止広島県協議会代表委員となる
1965年 2月 広島大学での最終講義「平和倫理の研究と実践」
1965年 3月 広島大学新聞に「被爆20周年を期し学園関係原爆犠牲者慰霊碑を建設せよ」と提案(73年に慰霊碑建立)
1965年 3月 広島大学定年退官、広島大学名誉教授となる
1965年 4月 ソ連平和委員会の招待により被爆者平和使節団団長としてソ連を訪問
1966年 6月 日本被団協理事長に初の決戦投票(相手は日本原水協代表理事)により選出。日本被団協分裂を回避し統一を保持した
1966年11月 原水爆禁止運動三団体の賛意をうけて原爆ドーム保存の募金運動に奔走
1967年 3月 原爆被爆者特別措置に関する法律の提案にともなう日本被団協の国会請願行動の先頭に。被爆者援護法の制定を求める運動は大きく盛り上がったが、5月に成立した法律は、被爆者の要求とはほど遠いものに
1969年 7月 第61国会で参議院の社会労働委員会参考人として「国家補償としての被爆者援護法の制定」を要求(自民党は当初国家補償を含めると約束したと追求。国は被爆者対策は「社会保障」の枠内に固執
1969年 8月 原水禁世界大会・沖縄国際会議のため、はじめて沖縄を訪問
1970年 8月 日本被団協総会。自らの提案による規約改正(集団指導体制への移行)に伴い理事長を辞任
1970年11月 ヒロシマ会議(現代における平和の条件)に出席
1971年 4月 反核を訴えるため、世界一周旅行に出発。アメリカ、イギリス、西ドイツ、フランス、スウェーデン、ソ連、ユーゴスラビアを訪問。アメリカではライナス・ポーリング博士と会見。ベトナム反戦ワシントン大集会で演説
1971年11月 岩国基地撤去大集会でデモの先頭にたつ
1973年 1月 密航韓国人被爆者の広島赤十字病院入院に尽力して実現。同被爆者は後に裁判で被爆者手帳も取得
1973年 7月 フランスの核実験抗議のため座込み。以来、核実験の度毎に慰霊碑の前に座り込む
1973年 7月 桑原裁判を支援する会を結成(「認定」裁判)。
1973年 8月 広島県民集会で決意表明
…………………………………………………………………………………………
若き後継の人たちも育ち、いつ倒れてもよいと思う。命ある限りたたかう。
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1974年 5月 被爆者援護法案の廃案に抗議声明を出す。被爆証人探しをはじめる
1974年 5月 フランス核実験抗議のため、フランス、イギリス、イタリアを訪問
1974年 6月 モルロア核実験に反対している「爆弾に反対するフランス人連合」会長ボラディエール将軍をブルタニューに訪問
1974年 7月 核兵器完全禁止をめざし団結をよびかける広島の学者・文化人(12人)のアピールに名を連ねる
1974年 8月 朝日新聞の「広島と世界の往復書簡」でノエル・ベーカー博士と対話。「慈の文化」を語る
1974年 9月 焼津市で開催された原水協・原水禁両団体関係者の統一的な集会に列席
1975年 4月 非核太平洋会議出席のためフィジー訪問
1975年 4月 被爆者の特別措置法改正案を審議中の衆議院社会労働委員会で参考人として意見陳述。「国家補償の援護法」を要求(社公民共四党が保革伯仲の参議院に援護法案を提出。同法は7月に廃案
1975年 5月 アメリカの核実験に抗議してリフトン教授等と慰霊碑前に座り込む
1975年 6月 原水禁運動の統一をめざす七者懇談会(8月1日に流会)
1975年 8月 被爆30周年原水禁世界大会・広島大会で「核絶対否定」の理念をのべる
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核分裂エネルギーにたより続けたら、この地球全体がプルトニウムや放射性廃棄物の故に、人類の生存をあやうくされるのであります。私たちは今日まで核の軍事利用を絶対に否定してきましたが、いまや核の平和利用とよばれる核分裂エネルギーの利用をも否定しなければならぬ核時代に突入したのであります。しょせん、核は軍事利用であれ平和利用であれ、地球上の人間の生存を否定するものである、と断ぜざるをえないのであります。結局、核と人類は共存できないのであります。
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1976年 8月 被爆31周年原水爆禁止世界大会の基調演説で「核絶対否定の理念」を強調、核兵器も原発もない「核のない未来」の実現を訴える
1976年10月 福井県敦賀で原発反対全国活動者会議で主催者代表あいさつ
1977年 4月 2つの広島県被団協が分裂後はじめての統一集会。よびかけ人を代表して挨拶
1977年 5月 岩波書店会議室で日本原水協の草野信男理事長と「5・19合意」に署名。吉野源三郎氏ら7人が立ち合う。
1977年 8月 14年ぶりに開催された統一世界大会に出席、議長団を代表して挨拶
1978年 5月 「第1回国連軍縮特別総会」に参加するためニューヨークを訪問
1979年 3月 「ビキニ被災25周年ビキニデー広島集会」で主催者代表として挨拶
1980年 5月 「非核独立太平洋会議」に出席するためハワイを訪問。「非核太平洋人民憲章」を提案
1980年10月 「援護法制定促進広島県民集会」宮沢知事に要請
1980年12月 「原爆被爆者対策基本問題懇談会」の報告に対する抗議の県民集会で主催者として決意表明
1981年11月 「ヒロシマ語り部」としてドルムント平和集会に参加するため西ドイツを訪問。反核大集会で演説
1982年 3月 「82年・平和のためのヒロシマ行動」で演説
1982年 6月 第2回国連軍縮特別総会に参加のためニューヨークを訪問
1985年 5月 原爆白内障治療のため広島県病院に入院
1985年 6月 被爆者代表として中国を訪問。
1985年 7月 ソ連核実験に抗議して座込み(300回)
1985年 8月 「国際被爆者フォーラム」実行委員長。マーシャル、オランダ、イギリス、カナダ、マレーシアなどのヒバクシャが参加
1985年 8月 沖縄の国際連帯会議に参加
1986年 4月 85才の誕生日の翌日、仏核実験抗議の座込みの日にチェルノブイリ事故の報道に接する
1986年 8月 統一世界大会開催不可能に
1987年 9月 第1回核被害者世界大会に出席するためニューヨーク訪問
1988年 8月 「森瀧先生の米寿を祝い励ます会」開催
1989年 4月 青森県六ヶ所村で開催された「反核燃全国集会」を呼びかけ。核燃基地を包囲する「人間の鎖」の先頭にたつ
1990年 3月 原爆慰霊碑前での核実験座込みが500回に
1990年 9月 肋骨カリエスのため入院。肋骨一部切除、冷膿瘍摘出手術
1991年 4月 谷本清平和賞受賞。満90才、卒寿を迎える
1993年 7月 広島県被団協5年度総会に出席
1993年 7月 核実験抗議慰霊碑前座込み20周年記念に出席
1993年 8月 被爆48周年原水爆禁止世界大会開会総会で主催者あいさつ
1993年 8月 原爆死没者追悼慰霊式典で追悼の辞
1993年 8月 日赤原爆病院に入院
1993年11月 平和公園を散歩
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1994年1月25日、森滝市郎原水禁国民会議議長が92歳で死去
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『著書』に、『反核30年』(日本評論社刊)、『ヒロシマ40年―森瀧日記の証言』(中国新聞社刊)。共著に『非核未来に向けて』(績文堂)、『いのちとうとし』(広島県原水禁刊)など。
コメント
_ Akane Moritaki Berame ― 2012/08/14 21:24
_ 森瀧 ― 2013/05/16 15:49
森瀧市郎さんの遠い親戚です。
私は小学6年なんで詳しいことは知りませんでした。
なので勉強させていただきました。
私の祖父も凄いですよ!
私は小学6年なんで詳しいことは知りませんでした。
なので勉強させていただきました。
私の祖父も凄いですよ!
_ 野崎 ― 2013/05/17 02:46
森瀧様 コメントありがとうございました。
市郎先生が亡くなられて20年近くたち、反核運動の現場も森瀧先生と会ったことのない世代が中心になりつつあります。多少なり係わったものとしては、伝えるべきことはちゃんと伝えなくてはなーと思っています。
市郎先生が亡くなられて20年近くたち、反核運動の現場も森瀧先生と会ったことのない世代が中心になりつつあります。多少なり係わったものとしては、伝えるべきことはちゃんと伝えなくてはなーと思っています。
_ カマック 祥子 ― 2013/07/03 00:04
実は森滝市郎先生は私の祖父のいとこであられ、今から30年前実際にお会いすることができ、実はごく最近その時の会談を録音したカセットテープがでてきました。先生の肉声は本当に優しく、それでいて一本筋が入っているごとく剛強なものでした。私は現在アメリカ空軍士官の夫と結婚、3人の子供をもっておりますが、原爆に対する考え方は、同じ家族の中でもそれぞれ違っております。その時の、それぞれの立場で考え方はは違えども、命の重さを尊ぶ気持ちに変わりは無いと信じたいですね。
_ 野崎哲 ― 2013/09/15 15:15
カマック祥子様 コメントありがとうございました。レスが遅くなって申し訳ありません。ヒロシマ・ナガサキの経過はともかく、核兵器の悲惨さと二度と同じことを起こしてはならないという気持ちを共有できるとよいのですが。
森瀧先生の肉声のカセットは非常に貴重です。いま、福島原発事故もあって、森瀧イズムが再び注目を浴びているタイミングですし、もしカマック様自身で活用される予定がなく、お貸しいただける可能性があれば原水禁と相談して活用方法を考えたいのですが…。人間・森瀧一郎の資料は案外、少ないものですから。
森瀧先生の肉声のカセットは非常に貴重です。いま、福島原発事故もあって、森瀧イズムが再び注目を浴びているタイミングですし、もしカマック様自身で活用される予定がなく、お貸しいただける可能性があれば原水禁と相談して活用方法を考えたいのですが…。人間・森瀧一郎の資料は案外、少ないものですから。
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祖父の活動・ライフワークについては、私より詳しいと思いますので、ちょっとエピソードを書かせて頂きますね。
子供は厳しくしつけるほど立派に育つと思っていた母が、舅・森瀧市郎から言われた「青天の霹靂」の一言が
「子供は可愛がっておりさえすりゃあ、ええ子に育つんよ。わしをみんさい。」
だったそうです。
「力の文明から愛の文明へ」
本当に優しい、お祖父ちゃんでした。