忌野清志郎さんが死んじまった2009/05/02

タイマーズの忌野清志郎
忌野清志郎が死んじまったよ。
ガンで闘病中だったことは知っていたけれど、58歳とはあまりにも早すぎる。再発がわかり秋のライブをキャンセルしたので心配はしていたけど、病状悪化の報道もなかったので、そのうちまた復活すんだろうくらいに思っていた。
06年7月にのどにがんが見つかった際も、がんを「新しいブルース」と表現し、「新しいブルースを楽しむような気持ちで治療に専念」すると前向きに病気と闘って、再発が分かったときも「このくらいのことは覚悟してたんで、ぜんぜんヘコんでないから。ブルースはまだまだ続いているというわけだ。すぐに帰ってくるから応援してくれ!」と書いた。しぶとく闘病するんじゃなかったのかよ。残念だよ。
最初に清志郎さんの曲に触れたのは、88年の『カバーズ』発禁騒動のときだった。反原発運動の中で「カバーズ」のコピーテープが出回ったのを聴いたのが最初。その後、タイマーズのヘルメットスタイルが、当時の僕の学生運動気分の琴線に触れてしばらくはよく聴いていた。でも、結局、当時は清志郎さんの歌は皮肉っぽく不真面目に聞こえて、もっとずっとストレートに感じられた浜田省吾の方に流れちゃったんだよね。
それが40を超して、なんか清志郎が分かるような気分になってきた頃には、もうがん闘病中。結局、ライブにも行ったこともないんだよね。間に合わなかったね。淋しいね。

<サマータイム・ブルース>

暑い夏がそこまで来てる
みんなが海へくり出していく
人気のない所で泳いだら
原子力発電所が建っていた
さっぱりわかんねえ、何のため?
狭い日本のサマータイム・ブルース

熱い炎が先っちょまで出てる
東海地震もそこまで来てる
だけどもまだまだ増えていく
原子力発電所が建っていく
さっぱりわかんねえ、誰のため?
狭い日本のサマータイム・ブルース

寒い冬がそこまで来てる
あんたもこのごろ抜け毛が多い (悪かったな、何だよ)
それでもテレビは言っている
「日本の原発は安全です」
さっぱりわかんねえ、根拠がねえ
これが最後のサマータイム・ブルース
(以下略)

森瀧市郎:「核絶対否定」を貫いた哲学者2009/05/09

座り込む森瀧先生
自分が影響された人といえば、最初にあげなくてはならないのはやはり森瀧市郎先生でしょうか。
森瀧先生は日本の平和運動における第一人者であり、核実験や戦争に抗議して平和公園で座り込むその姿は、被爆都市ヒロシマの象徴と言われました。被爆によって右目を失いながら、遠く核のない未来を見つめ、反核・平和、ヒバクシャ運動に力を尽くされたその人生が、原水禁運動の歩みそのものであることを否定する人はいないでしょう。

僕が東京の原水禁国民会議の事務局で働きはじめた1987年頃は、森瀧先生はすでに80代後半のご高齢だったうえ広島にお住まいでしたらから、生の森瀧先生と接した機会はそれほど多くはありません。たまにお会いしても、相手は原水禁運動の象徴的指導者、こちらはぺーぺーのバイト学生ですから気軽に話しかけるわけにもいかず、「あ、生森瀧だ!」と思いながらドキドキしていたのが関の山でした。本当はもっと根掘り葉掘り聞きたいこともたくさんあったのだけど、なかなかそこまではできなかった。それでも末席で同席させてもらったり、ご一緒させていただくときもあって、そのオーラに圧倒されたものです。
最初はみんな持ち上げるけどただのじいさんじゃないの?と思っていたけど、そのうち下手なこと言ったら「ダマラッシャイ」と杖で一喝されそうな気難しい老学者先生に見えてきたりして、結局、そのどちらも森瀧先生だったのですね。「核」につながるものに徹底して厳しく、人間として共に生きようとするすべての人に優しく、時には頑固な老哲学者であり、いつもは普通のおじいさん。ただただ核と闘い抜いたその信念と生き様が、多くの人々に影響を与えてきたのです。
おかげで僕も反核・平和をライフワークとしてやっています。かなり頼りないですが、頑張っていくつもりですから、どうか見守ってください。たまたまNHKの番組で森瀧先生の特集をしていたので、森瀧先生のことを思い出した次第です。
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森瀧市郎先生(略歴)
原水爆禁止日本国民会議議長、広島大学名誉教授

1901年 4月 広島県双三郡君田村に生まれる
1925年 3月 広島高等師範卒業
1925年 4月 広島県立三次中学校教諭に就任
1927年 4月 京都帝国大学文学部哲学科入学
1930年 3月 京都帝国大学文学部哲学科卒業
1930年 4月 京都帝国大学大学院。兼京都高等蚕糸学校(現京都工芸繊維大学)講師。
1931年 3月 京都大学大学院卒業、同年、広島高等師範教授
1931年12月 西しげと結婚、広島市白島中町に住む
1932年 6月 慢性肋膜炎のため入院(10月まで)
1943年 8月 広島市翠町に転居
1945年 8月 広島市江波町の三菱重工江波造船所の動員学徒の教官室で原爆に被爆。ガラスの破片で右目を失う
1946年 9月 被爆した目の治療のため入院
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入院生活中に「力の文明」を否定して、宗教道徳が主座につく精神文明が復位すべきだとする「慈の文化」に思い至る。
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1946年 3月 高師に単身帰任
1950年 2月 広島文理大学文学部教授に就任
1950年11月 博士学位論文「英国倫理研究」
1951年 9月 広島大学平和問題研究会発会。世話人の一人となる
1952年 8月 広島市霞町に転居
1952年12月 学位論文が文理大学教授会を通過
1953年 4月 広島大学文学部教授(文理大廃止)。
1953年 2月 広島こどもを守る会会長となる。原爆孤児の救済運動(精神養子運動)を始める。平和と学問も守る大学人の会に参加
1954年 4月 佐伯郡五日市町海老園に転居
1954年 5月 原水爆禁止広島市民大会を開催
1954年 5月 原水爆禁止を求める「百万署名」の街頭署名運動をはじめる。
1954年 7月 原水爆禁止広島県運動本部を結成、事務局長となる
1954年 8月 原水爆禁止広島平和大会で一般経過報告
1954年 9月 県民運動本部を発展的に解消し、原水爆禁止運動広島協議会」(広島原水協)を結成し事務局長となる(後に代表委員)。
1954年10月 第一回原水爆禁止世界大会の開催を原水爆禁止署名運動全国協議会の総会に提案
1955年 8月 第一回原水爆禁止世界大会が広島で開催、現地事務局長を務める
1955年 9月 原水爆禁止日本協議会(日本原水協)発足、やがてその常任理事・代表委員の一人となる
1956年 3月 最初の原爆被害者大会の開催に尽力
1956年 5月 広島県原爆被害者団体協議会を結成し理事長となる
1956年 8月 日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)発足、代表委員の一人となる
1957年 3月 イギリス・クリスマス島の水爆実験計画に抗議して慰霊碑前に座り込む
1957年 4月 原水爆実験阻止広島市民大会
1957年 8月 原水爆禁止国民平和使節として、英、独、仏、オーストリアを訪問
1957年 8月 英・北ウエールズの山荘でバートランド・ラッセル博士と会見
1957年 8月 西ドイツの核武装に反対する「ゲンチンゲン宣言」の学者と会見
1957年 9月 第三回パグオッシュ会議を実現したオーストリア大統領シェルフ博士と会見
1958年 5月 原爆の子の像除幕。募金活動に奔走
1958年 6月 広島~東京一千キロ国民平和大行進の成功に尽力
1958年 7月 中国新聞に、後年有名となる「人類は生きねばならぬ」という命題をのべた一文を発表
1960年 8月 日本被団協総会が代表委員制を改め理事長となる。被爆者援護法制定要求運動への本格的な取り組みを開始
1962年 4月 アメリカとソビエトの核実験に抗議し(大学に辞表を提出し)て17日間慰霊碑の前に座り込む(後に核実験の都度の座込みの発端)
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このとき「精神的原子の連鎖反応が 物質的原子の連鎖反応にかたねばならぬ。
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1962年 6月 ガーナの首都アクラで開催された「原爆のない世界のためのアクラ会議にエンクルマ大統領に招待され、ガーナ、ガボンのランバレネ、ギリシャを訪問
1962年 6月 赤道直下のランバレネの病院でシュバイツアー博士と会県
1963年 8月 第九回原水爆禁止世界大会で「いかなる国の核実験にも反対」というスローガンと部分的核実験禁止条約の賛否をめぐって日本原水協分裂
1963年12月 東京地裁で「原爆裁判」の判決
1964年 3月 原水爆禁止三県連絡会議(後に原水禁に発展)
1964年 4月 全地婦連、日青協、日本原水協を脱退
1964年 6月 広島県原水爆禁止協議会分裂。共産党系理事脱退
1964年 6月 佐久間澄広島大教授(原水協)、村上忠敬広島大教授(核禁会議)らとともに「談話会」をつくり、被爆20周年を翌年に控えて、政府に「原爆被害白書」をつくらせる運動を開始
1964年 6月 日本原水協理事会によって「代表委員より除外」される。
1964年 8月 「社会新報」に「被爆地の願い――社会党・総評の皆さんに訴える」を公表。「いかなる」問題に言及
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三被爆地から訴えた運動の正常化はただに国民的統一のみならず人類的国際的統一の芽さえもつところのものであって、系列化固定化は絶対望むところではない。真に被爆地から被爆者の心に立って起こる運動であれば、いずれの側のものでもなければ、いずれの国につくものでもなく、生きんとする人類すべてをつなぐ運動たりうるのである。
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1964年10月 国際協力と軍縮のためのオーストラリア会議に出席するためオーストラリアを訪問。アボリジニに対する人種差別と「核の被害」に注目
1965年 1月 肺炎にかかり2月迄、絶対安静。
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被爆20周年の決意をこめて、後に有名となる「人類は生きねばならぬ」の書き初めをする
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1965年 2月 原水爆禁止日本国民会議(原水禁)が発足、代表委員に就任(事務局長は伊藤満氏)。原水爆禁止広島県協議会代表委員となる
1965年 2月 広島大学での最終講義「平和倫理の研究と実践」
1965年 3月 広島大学新聞に「被爆20周年を期し学園関係原爆犠牲者慰霊碑を建設せよ」と提案(73年に慰霊碑建立)
1965年 3月 広島大学定年退官、広島大学名誉教授となる
1965年 4月 ソ連平和委員会の招待により被爆者平和使節団団長としてソ連を訪問
1966年 6月 日本被団協理事長に初の決戦投票(相手は日本原水協代表理事)により選出。日本被団協分裂を回避し統一を保持した
1966年11月 原水爆禁止運動三団体の賛意をうけて原爆ドーム保存の募金運動に奔走
1967年 3月 原爆被爆者特別措置に関する法律の提案にともなう日本被団協の国会請願行動の先頭に。被爆者援護法の制定を求める運動は大きく盛り上がったが、5月に成立した法律は、被爆者の要求とはほど遠いものに
1969年 7月 第61国会で参議院の社会労働委員会参考人として「国家補償としての被爆者援護法の制定」を要求(自民党は当初国家補償を含めると約束したと追求。国は被爆者対策は「社会保障」の枠内に固執
1969年 8月 原水禁世界大会・沖縄国際会議のため、はじめて沖縄を訪問
1970年 8月 日本被団協総会。自らの提案による規約改正(集団指導体制への移行)に伴い理事長を辞任
1970年11月 ヒロシマ会議(現代における平和の条件)に出席
1971年 4月 反核を訴えるため、世界一周旅行に出発。アメリカ、イギリス、西ドイツ、フランス、スウェーデン、ソ連、ユーゴスラビアを訪問。アメリカではライナス・ポーリング博士と会見。ベトナム反戦ワシントン大集会で演説
1971年11月 岩国基地撤去大集会でデモの先頭にたつ
1973年 1月 密航韓国人被爆者の広島赤十字病院入院に尽力して実現。同被爆者は後に裁判で被爆者手帳も取得
1973年 7月 フランスの核実験抗議のため座込み。以来、核実験の度毎に慰霊碑の前に座り込む
1973年 7月 桑原裁判を支援する会を結成(「認定」裁判)。
1973年 8月 広島県民集会で決意表明
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若き後継の人たちも育ち、いつ倒れてもよいと思う。命ある限りたたかう。
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1974年 5月 被爆者援護法案の廃案に抗議声明を出す。被爆証人探しをはじめる
1974年 5月 フランス核実験抗議のため、フランス、イギリス、イタリアを訪問
1974年 6月 モルロア核実験に反対している「爆弾に反対するフランス人連合」会長ボラディエール将軍をブルタニューに訪問
1974年 7月 核兵器完全禁止をめざし団結をよびかける広島の学者・文化人(12人)のアピールに名を連ねる
1974年 8月 朝日新聞の「広島と世界の往復書簡」でノエル・ベーカー博士と対話。「慈の文化」を語る
1974年 9月 焼津市で開催された原水協・原水禁両団体関係者の統一的な集会に列席
1975年 4月 非核太平洋会議出席のためフィジー訪問
1975年 4月 被爆者の特別措置法改正案を審議中の衆議院社会労働委員会で参考人として意見陳述。「国家補償の援護法」を要求(社公民共四党が保革伯仲の参議院に援護法案を提出。同法は7月に廃案
1975年 5月 アメリカの核実験に抗議してリフトン教授等と慰霊碑前に座り込む
1975年 6月 原水禁運動の統一をめざす七者懇談会(8月1日に流会)
1975年 8月 被爆30周年原水禁世界大会・広島大会で「核絶対否定」の理念をのべる
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核分裂エネルギーにたより続けたら、この地球全体がプルトニウムや放射性廃棄物の故に、人類の生存をあやうくされるのであります。私たちは今日まで核の軍事利用を絶対に否定してきましたが、いまや核の平和利用とよばれる核分裂エネルギーの利用をも否定しなければならぬ核時代に突入したのであります。しょせん、核は軍事利用であれ平和利用であれ、地球上の人間の生存を否定するものである、と断ぜざるをえないのであります。結局、核と人類は共存できないのであります。
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1976年 8月 被爆31周年原水爆禁止世界大会の基調演説で「核絶対否定の理念」を強調、核兵器も原発もない「核のない未来」の実現を訴える
1976年10月 福井県敦賀で原発反対全国活動者会議で主催者代表あいさつ
1977年 4月 2つの広島県被団協が分裂後はじめての統一集会。よびかけ人を代表して挨拶
1977年 5月 岩波書店会議室で日本原水協の草野信男理事長と「5・19合意」に署名。吉野源三郎氏ら7人が立ち合う。
1977年 8月 14年ぶりに開催された統一世界大会に出席、議長団を代表して挨拶
1978年 5月 「第1回国連軍縮特別総会」に参加するためニューヨークを訪問
1979年 3月 「ビキニ被災25周年ビキニデー広島集会」で主催者代表として挨拶
1980年 5月 「非核独立太平洋会議」に出席するためハワイを訪問。「非核太平洋人民憲章」を提案
1980年10月 「援護法制定促進広島県民集会」宮沢知事に要請
1980年12月 「原爆被爆者対策基本問題懇談会」の報告に対する抗議の県民集会で主催者として決意表明
1981年11月 「ヒロシマ語り部」としてドルムント平和集会に参加するため西ドイツを訪問。反核大集会で演説
1982年 3月 「82年・平和のためのヒロシマ行動」で演説
1982年 6月 第2回国連軍縮特別総会に参加のためニューヨークを訪問
1985年 5月 原爆白内障治療のため広島県病院に入院
1985年 6月 被爆者代表として中国を訪問。
1985年 7月 ソ連核実験に抗議して座込み(300回)
1985年 8月 「国際被爆者フォーラム」実行委員長。マーシャル、オランダ、イギリス、カナダ、マレーシアなどのヒバクシャが参加
1985年 8月 沖縄の国際連帯会議に参加
1986年 4月 85才の誕生日の翌日、仏核実験抗議の座込みの日にチェルノブイリ事故の報道に接する
1986年 8月 統一世界大会開催不可能に
1987年 9月 第1回核被害者世界大会に出席するためニューヨーク訪問
1988年 8月 「森瀧先生の米寿を祝い励ます会」開催
1989年 4月 青森県六ヶ所村で開催された「反核燃全国集会」を呼びかけ。核燃基地を包囲する「人間の鎖」の先頭にたつ
1990年 3月 原爆慰霊碑前での核実験座込みが500回に
1990年 9月 肋骨カリエスのため入院。肋骨一部切除、冷膿瘍摘出手術
1991年 4月 谷本清平和賞受賞。満90才、卒寿を迎える
1993年 7月 広島県被団協5年度総会に出席
1993年 7月 核実験抗議慰霊碑前座込み20周年記念に出席
1993年 8月 被爆48周年原水爆禁止世界大会開会総会で主催者あいさつ
1993年 8月 原爆死没者追悼慰霊式典で追悼の辞
1993年 8月 日赤原爆病院に入院
1993年11月 平和公園を散歩
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1994年1月25日、森滝市郎原水禁国民会議議長が92歳で死去
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『著書』に、『反核30年』(日本評論社刊)、『ヒロシマ40年―森瀧日記の証言』(中国新聞社刊)。共著に『非核未来に向けて』(績文堂)、『いのちとうとし』(広島県原水禁刊)など。

5・19 太田竜氏が死去2009/05/19

太田竜
 いやあ、太田竜さん死んじゃったんだねえ。そもそもご存命だったのを知らなかったけど、日本の左翼運動の一つの源流とも言える人だからさすがに感慨深い。享年78歳ということだから、06年に78歳で亡くなった黒田寛一(革マル派の教組)より若かったんだなあ。
 日本みどりの連合とかつくって86年の参議院選挙とか翌年の都知事選にでたのを見て、何なんだろうと思ってから、彼の主張をまともに認識しなくなったんだけど、頑張っていたんだなぁ。
 MELTの寺岡衛さんと江藤正修さんが出した『戦後左翼はなぜ解体したのか』(同時代社刊)の別冊『資料集』のなかで、小島昌光さんが太田さんのことを書いていたのを、たまたまつい最近読んだのです。曰く「1週間に1回、400字詰めで10枚の原稿を書くが、書き始めから書き終わりまでほとんど修正がない。一気に原稿を書いても、起承転結がはっきりしている。ものすごい頭脳で、常人ではない」と。「放っておけば太田竜から原稿が次々出てくる」、「太田竜の頭の中に百科事典が入っている。知らないことが何もない。何かあると、それをすぐマルクス主義的に分析する。…全部知っている。即、論文が書ける。例えば○○問題で…論文を書けといったら、あっという間に書く。革命の戦略まで書いてしまう」んだそうな。
 本当かよ?と思うけど、彼らは太田竜派の人々ではないから別にお世辞を言っているとも思えない。じゃあ、なんで革命出来なかったのよ?とかも思うけど、そんな人間が生きてるならぜひ一度、会ってみたかった。
 フランスではLCR(第4インター)のオリヴィエ・ブザンスノーが大人気で「反資本主義新党(NPA)」を結成して大統領選のダークホースとなっているとか、日本でも政権交代があるかもしれないとか、JRCL(日本革命的共産主義者同盟)と「労働者の力」派が機関紙共同編集を決定したとか、激動の世の中をどう思っていたのだろう。

ピースボート海賊から護衛2009/05/20

ピースボート
こうした報道を受けて、嫌がらせの電話などが結構あったようだ。
僕は別にピースボート事務局の肩を持つわけでもないし、具体的な認識や判断の経過も知らないから、個別ケースとして適否は分からない。でも、最近この類の発想が増えているような気がして不愉快だ。
そもそも何事かを批判したり主張することと、当然の権利を行使することはなんの関係もない。にも係わらず、批判したり権利を主張することを否定的に感じて、批判するなら権利を行使するなとわんばかりの議論が、非常に幅広く存在する。
原発批判するなら電気使うなとか、年金制度を批判するなら年金もらうなとか、医療制度を批判するなら医者にかかるなとか、というのと同じだ。
現状の年金制度批判するのはちゃんと年金もらえるようにして欲しいからだし、医療制度を批判する場合だって医者がいらないという意味じゃない。警察の機構で問題が起れば批判するのは当然で、むしろちゃんと安全を確保してもらわないとこまるから批判するわけでしょう。
最後は、お国を批判するなら日本を出て行けとなるわけだけだ。黙って堪える人がお好み、正論で批判したり権利を主張する生意気なヤツはなぜか気に入らないというのは、多数におもねて何も出来ない自分の不甲斐なさの裏返しではないか。結局、現状を擁護するイデオロギーにしかならないのに。
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MSN産経ニュース(2009.5.14)
ピースボート護衛受ける ソマリア沖

 海賊対策のためアフリカ・ソマリア沖に展開中の海上自衛隊の護衛艦が、民間国際交流団体「ピースボート」の船旅の旅客船を護衛したことが13日、分かった。ピースボートは海賊対策での海自派遣に反対しており、主張とのギャップは議論を呼びそうだ。
 海自の護衛艦2隻は11日から13日にかけ、ソマリア沖・アデン湾を航行する日本関係船舶7隻を護衛。うち1隻がピースボートの船旅の旅客船だった。ピースボートは社民党の辻元清美衆院議員が早稲田大在学中の昭和58年に設立。船旅は寄港地のNGO(非政府組織)や学生らと交流を図ることなどを目的としている。
 66回目となる今回の船旅は約3カ月半に及ぶ地球一周で、北欧5カ国とフィヨルドを巡るのが目玉。約600人が参加し、4月23日に横浜港を出発後、中国とシンガポールに寄港。ピースボートのホームページには船旅の最新リポートとして、デッキで催されたフルーツパーティーの様子が掲載されている。
 ピースボート事務局によると、船旅の企画・実施を行う旅行会社が護衛任務を調整する国土交通省海賊対策連絡調整室と安全対策を協議し、海自が護衛する船団に入ることが決まったという。
 ピースボートは市民団体による海自派遣反対の共同声明にも名を連ねている。事務局の担当者は「海上保安庁ではなく海自が派遣されているのは残念だが、主張とは別に参加者の安全が第一。(旅行会社が)護衛を依頼した判断を尊重する」と話している。

ツリーハウス日記2009/05/20

ロビンソンのツリーハウス
 河口湖「森と湖の楽園」ツリーハウス村にツリーハウスを作っている僕と、友人、実妹の3家族+アルファの連絡や情報交換用に、もともとmixiのなかにコミュをつくっていたのだけど、mixiに入っていないと見れないのは不便だとも言われたので、移植して自分のブログと統合する作業をしている。そのため最近upされたはずなのに、日付けが2年も前だな?というのは、もともとの日付けをそのまま移しているためだ。
 写真はたぶん日本で一番有名なツリーハウス。ディズニーランドのロビンソンのツリーハウス。リアルの日本にはこういう大きな木は少ないのでこういうのを実現するのは難しい。

B規約第一選択議定書を批准させよう!2009/05/20

ジュネーブ国連欧州本部B規約人権委員会対日審査
国際人権規約(自由権)第一選択議定書批准をマニフェストに掲載するよう、日弁連から要請を受けた。こちらはトップと担当役員に受けてもらった。

国際人権規約とは、世界人権宣言の内容を基礎として条約化したもので、人権諸条約の中で最も基本的なもの。世界人権宣言採択後18年間にわたって議論が重ねられ、66年12月の国連総会で採択(76年発効)された。日本も79年に批准している。
正式には「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約」(社会権規約)と、「市民的及び政治的権利に関する国際規約」(自由権規約)といい、社会権規約は「国際人権A規約」、自由権規約は「国際人権B規約」と呼ばれる。
A規約は、労働の権利、社会保障についての権利、教育についての権利などの社会権を保障するもの。B規約は、身体の自由と安全、移動の自由、思想・良心の自由、差別の禁止、法の下の平等などの自由権を保障するものだ。
B規約には「市民的政治的諸権利に関する選択議定書」(第一選択議定書、第二選択議定書)」が付属している。第1選択議定書はB規約で保障された権利を侵害され国内の手続で救済がなされなかった場合に、その個人が国連自由権規約委員会に通報できる制度を定めたもの。第2選択議定書は死刑の廃止を定めたものである。
B規約は09年2月現在で164カ国が批准し、B規約第一選択議定書は111カ国が批准している。日本は79年にB規約を国会承認する際に、衆参両院で「選択議定書批准を早期に検討すること」とする附帯決議が付されているにもかかわらず、いまだ批准していないのである。人権擁護は否定しづらいものの、日本政府にとっては国内の人権侵害を国内で解決できず、国際社会で批判されることになる第一選択議定書への批准は、本音は乗り気じゃない。のらりくらりとずーとごまかしているのだ。
しかしOECD30カ国の中で、日本以外の29カ国が第一選択議定書を批准するか、他の個人通報制度を有している現状のなかで、国際的な風当たりも強くなってる。08年には国連人権規約委員会から批准を検討するよう勧告もされている。
このようななか日弁連は07年6月に、第一選択議定書批准を目指す特別委員会を立ち上げて取り組みをすすめており、今回はその一環としての要請だ。政権交代もあり得る状況の中で、野党も含めて認識を深めさせるための働きかけは大変ありがたい。

僕らも批准すべきとは言ってきたし、選挙政策にも書き込んではあるものの、全体としては決して十分な認識あるとはいえない。とくにこういう課題は直接の利害関係者が少ないので、なかなか各論の域を出ないんだな。政策の作り方も各担当者にふって、それを集約するという通常の手法の中ではなかなかプライオリティをつけるのが難しい。メリハリをつけろという議論もよく出るんだけど、それぞれの関係者にとってはそれぞれの課題が一番重要なわけで、比較しずらいよね。だれも「あんたの分野は重要でないから後回し」とは言えないもんね。それで結局総花的な主張になるか、多くの人の日々の暮らしに係わる課題を先に出すという結果になっちゃう。
まあ、うちらはトップも担当役員も弁護士だからことの重要性は分かってるはず。あとは彼らの調整力次第かな。

裁判員制度はじまる2009/05/21

裁判員議連
今日から裁判員法が施行される。もともと2004年5月に全会一致で成立した裁判員法だが、5年を経て施行が近づくにつれ、反対の声が大きくなり予定通りにスタート出来るか危ぶまれていたところだ。
全会一致案件なのでみんな反対しづらいのだけど、議員連盟(裁判員制度を問い直す議員連盟:亀井久興世話人)を作って、とりあえず施行の延期をしたらどうかとか、修正をしようとかいう議論をしてきたわけだ。議連にもあっと言う間に与党からも含めて60名もの参加者が集まり、反対論の根強さがわかる。
保守系議員の「そもそも市民に裁判が出来るわけはない、専門家に任しておくのがよいのだ」的反対論と、「市民の司法参加は総論賛成だが、条件が未整備で厳罰化や冤罪が心配」的反対論まで呉越同舟なのだが、とりあえずいったん止めて考え直そうという方向性で一致して取り組んできた。この手の超党派の取り組みとしては結構いいところまで行ったが、結局、「凍結・延期法案」提出には至らなかった。今後も法の修正や国会での徹底審議を目指す方針だ。
私個人は、裁判員制度には条件付賛成の立場。
行政主導の官僚司法を打ち破るためには市民の司法参加が欠かせないが、それを実施する上では様々な前提があるはず。前提が整わないまま拙速に実施することは制度を定着させる上でもマイナスだ。ということだ。現状は完全に前提が整ったとは言えないのは明らかだが、施行を凍結することまで必要かどうかは実は悩んでいた。
まあ、結局スタートしてしまったわけだから、前向きにとるものをとっていくべきではないか。例えば取り調べの可視化とか、証拠開示や公判前整理手続の運用のルール化、保釈の原則化、広範日程の確保等々。もちろん問題点の修正を目指すとかは当然すべきだけど、結局、危惧した不安だけ的中して、期待した前進はなにも得られないということだけは避けたいところだ。

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2009年5月21日/裁判員制度を問い直す議員連盟総会

                 裁判員制度施行にあたっての声明

 私たちは、本日始まった「裁判員制度」に強い懸念と憂慮を持っています。4月1日、超党派で裁判員制度を問い直す議員連盟を結成し、院内勉強会を重ねてきました。連休前の4月28日には、この制度に宿る問題点を整理して「裁判員制度凍結・見直しにむけた12の論点」を確認し、「裁判員制度凍結・延期法案」の作成を進めました。そして、提出者4名、賛同者31名を得て、先週の5月15日に衆議院における議員立法として国会提出の直前まで至りました。残念ながら、制度施行前の提出は出来ませんでしたが、7月にも始まろうとしている裁判員裁判を前に「一時停止」も含めた徹底的な議論と行動が必要です。本日までに、本議員連盟に加入する衆参両院の国会議員は、60名となりました。私たちは、立法府の責務として、裁判員制度に対して、国民の多数が不安や疑問を覚えている状態に積極的に応えようと思います。
 裁判員法(裁判員の参加する刑事裁判に関する法律)は、5年前に衆議院で全会一致、参議院で2人(椎名素夫・山本正和議員)の反対を除いて、賛成多数で成立しました。(平成16年・2004年5月21日) しかし、私たちは国会で当時、十分な審議を行ってきたのかを自省と自戒をこめてふり返る必要があります。重大事件を対象とする刑事裁判の根幹を変更する法案だったにもかかわらず、衆参法務委員会での審議時間は、衆議院で31時間、参議院で21時間でしかありません。議事録も薄いもので、議論は全般に及んでいるものの、充実した審議があったとは言えません。
 ただし、5年前の裁判員法は制度の骨格を決めたにすぎません。実施にむけた詳細な制度設計は、法曹三者に委ねられました。また、最高裁判所を中心として巨費を投じた「宣伝啓蒙活動」が続けられ、さすがにこの制度を知らないという国民は少なくなりました。私たちは、報道機関の世論調査の結果から、国民の中に「制度を知れば知るほど嫌になる」という傾向が存在することを認めざるをえません。
  最高法規としての憲法の下に裁判員法が存在しているのであり、その逆ではありません。「私は人を裁きたくない」「思想・信条から宗教上の理由から辞退したい」という理由を認めない制度は違憲であるという各界からの指摘は当然です。刑事司法に市民が参加する裁判員制度は「権利」として語られながら、いつの間にか「義務」と称しています。国民の三大義務がいつから四大義務になったのでしょうか。裁判所から裁判員候補に指名された国民に届く文書は「呼出状」という呼称です。刑事司法の場に強制的に呼びだされて、数日間で「死刑か、無期懲役か」の判断をし、その評議の秘密は墓場まで持っていけと刑事罰で脅されるという制度に、国民世論は冷えきっています。
 私たちは超党派の議員連盟として、国会議員の責任を果たし、国権の最高機関としての立法府の権能をとり戻すために立ち上がります。国民の声に率直に耳を傾ける姿勢こそ、政治の場に問われています。裁判員法は附則に「3年後の見直し規定」を置いていますが、とても3年待とうという状況ではありません。法や制度の不備があれば、躊躇なくこれをただしていくのが国会の役割です。
 私たちは、本日をもって更に議員連盟を拡大し、活動を強めます。同時に、緊急の立法措置も講じます。裁判員制度に対しての立場や評価がさまざまであっても、多くの報道機関や人々が指摘する「国民に対しての罰則が厳しすぎる」という点については、裁判員法改正案を作成しました。この法案は、議員連盟の枠を超えて与野党各党に積極的検討を求めていきます。
 もちろん、部分改正は本質的な解決ではありません。抜本的な見直しを3年後ではなく、この国会で実現すべく最大限の努力を続けます。

消極的安全保証問題主意書に対して答弁書2009/05/22

辻元主意書への答弁
辻元清美議員が提出していた、「消極的安全保証問題に関する質問主意書」に対する政府の答弁書が出た。
消極的安全保証というのは、核兵器国が核兵器を持たない国に対して核攻撃をかけないことを保証すること。世界の核軍縮をすすめる上で非常に意味があることと考えられている。核兵器国が核を持たない国を本当に攻撃しないのであれば核を持たない国が核を持とうとする意味を大きく減ずることが出来るからだ。
核兵器国とりわけ米国がこの立場をとろいうとする場合に日本の態度が大きな意味を持ってくる。日本政府が米国の「核の傘」に入ること、米国の拡大抑止に依存することを安全保障の要と考えているからだ。
つまり核兵器を持たない国に対して核兵器を使わないという立場を米国が明確にすると、日本が核兵器を持たない国から攻撃をされたときに米国は日本のために核兵器を使わないということを明確にするということになる。これは日本を攻撃しようとする国にとって有利であり、日本にとって抑止力が弱まることを意味するというわけだ。つまり米国はいつでもどんなときでも日本のために核兵器を使うという態度でいてください、ということ。
「抑止力」の発想からすれば当然ともいえる日本政府のこの立場が、実は米国の核軍縮の障害になっているとも言われている。日本が米国に守られていないと思えば、日本が米国から離れ、場合によっては独自の核武装をはかろうとするかも知れない。これは認められないから、アメリカ自身も核軍縮ができないという理屈だ。
オバマ政権が核廃絶を語り出すなかで、日本が米国の消極的安全保証に反対しないことを明確にすることは非常に重要だ。そのような立場が主意書の提出の背景にある。
これに対してこの答弁はなんだ。ヒドイ。何も答えていないのと一緒じゃないか。許せない。
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平成21年5月13日提出
質問第394号
消極的安全保証問題に関する質問主意書
                                提出者  辻元清美

 核兵器を持たない国には核攻撃をかけないことを核兵器国が保証する「消極的安全保証(NSA)」に関し、樽井澄夫軍縮代表部大使は、今年五月七日、二〇一〇年NPT再検討会議第三回準備委員会において、日本は一九七〇年にNPT(核拡散防止条約)に署名した際に、核兵器国は非核兵器国に対し核兵器の使用及び使用の威嚇をすべきでないと述べたと説明し、その立場に変更はなく、日本は「消極的安全保証」の考えを基本的に支持すると述べている。
 また、米国は一九九五年四月五日、以下のように宣言している。
「米国は、以下の場合を除き、核兵器の不拡散に関する条約の締約国である非核兵器国に対して、核兵器を使用しないことを再確認する。すなわち、米国、その準州、その軍隊、もしくは、その他の兵員、その同盟国、又は、米国が安全保障上の約束を行っている国に対する侵略その他の攻撃が、核兵器国と連携し又は同盟して、当該非核兵器国により実施され又は支援される場合を除き、それらの非核兵器国に対して核兵器を使用しないことを再確認する。」
 これら消極的安全保証に係わる我が国の認識は、世界の核軍縮を進めるに当たって、極めて重大な意味を持つものである。ついては、日本の「消極的安全保証(NSA)に対する基本的な支持」の意味について質問する。

 一、日本政府による「NSAに対する基本的な支持」というのは、いかなる状況においても、非核兵器国に対する核兵器使用の禁止を日本が支持するという意味か示されたい。それは、生物・化学兵器あるいは大量の通常兵器による攻撃があった場合についても、非核兵器国に対する核兵器使用の禁止を日本が支持することを意味するのか示されたい。

二、日本政府による「NSAに対する基本的な支持」とは、「核兵器国の領土(準州を含む)、その軍隊、もしくは、その他の兵員、その同盟国、又は、同核兵器国が安全保障上の約束を行っている国に対する侵略その他の攻撃が、他の核兵器国と連携し又は同盟して、当該非核兵器国により実施され又は支援される場合を除き」というような条件付きで、非核兵器国に対する核兵器使用の禁止を日本が支持するという意味か示されたい。それは、生物・化学兵器あるいは大量の通常兵器による攻撃があった場合についても、それが「他の核兵器国と連携し又は同盟して、当該非核兵器国により実施され又は支援される場合を除き」、非核兵器国に対する核兵器使用の禁止を日本が支持するという意味か示されたい。

三、日本政府が支持できないNSAとは、どのようなものか示されたい。

右質問する。
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内閣衆質171第394号
平成21年5月22日
                             内閣総理大臣 麻生太郎
衆議院議長 河野洋平殿

衆議院議員辻元清美君提出
消極的安全保証問題に関する質問に対し、別紙答弁書を送付する。

議院議員辻元清美君提出消極的安全保証問題に関する質問に対する答弁書

1から3までについて
政府としては、消極的安全保証について、非核兵器国に対して核を使用しないという考え方は基本的に支持し得るものと考えているが、これを供与するのは核兵器国であり、この供与の在り方等について現時点では核兵器国間での見解の一致がみられていないと承知しており、お尋ねについてお答えすることは困難である。

学童クラブのデイキャンプ2009/05/23

バーベキュー
今日は学童クラブの保護者会のデイキャンプ。午前10時過ぎに集合し午後7時近くまで、親はアルコール片手に懇親、子供はほぼほったらかしで遊ぶという日だった。
うちの子が通う学童クラブは公立じゃないNPOなので、親が積極的に運営に係わるし、親同士の仲もいい。
昨年のデイキャンプの企画は大雨で中止になった(実はその後晴れて、中止の判断をした保護者会会長が子どもたちから大ブーイングを浴びたのだけど)ので、今回は無事に出来て本当によかった。

京成バラ園に行きました2009/05/24

京成バラ園
ツリーハウスに行く予定だったのだけど、天気予報が午後から雨70%夜は80%という暗ーい雰囲気だったので中止にした。

かわりに千葉県八千代市の京成バラ園に。河口湖は自宅から120キロもあるが、バラ園は30キロ未満なのでやや気軽に行ける。雨が辛いのは同じだけど、バラ園だと見るだけだし。いま、ちょうど満開で、とてもきれいです。足元は悪いけど、雨の中のバラも風情があっていい。
正直いって僕はこの手のセンスがほとんどないので、バラの種類なんかほとんど分からないんだけど、彼女は喜んでパチパチ写真を撮ってるし、子供は「ローズアドベンチャー」とかいうオリエンテーリング風のゲームに興じて走り回っていました。
京成バラ園は設立50年とのこと。そんな頃からバラ育ててたんだなぁ。園内には1000品種7000株を超えるバラや樹木、草花が植栽されているとのこと。レストランもちと高いけどおいしいし、結構いいよ京成バラ園。