田辺誠元社会党委員長死去2015/07/02

田辺誠さんが亡くなった。
7月3日の朝に立憲ネットの会合で会った角倉群馬県議から聞いて、えーっと思ってたら夕刊で一斉に報道されていた。
1991年に土井たか子委員長の後をついで、社会党委員長となり93年まで努めた。僕が社会党書記局に入局した93年4月は、山花委員長・赤松書記長体制に変わった直後で、96年には政界を引退されているので、ほとんど具体的な付き合いはなかったけど、金丸信さんなど自民党幹部とも親しい国対族で、右派のリーダーというイメージだったから、なんとなく悪い印象を持っていた。
若い頃は、安保や自衛隊に少しでも強く反対するやつが偉いんだと、なんとなく思っていたからしょうがなかったんだけど、自分も年をとって政治家の評価に関しても一つの基準でははかれなくて、いろんな座標軸が重なり合っているんだよなあと思えるようになってきて、だいぶ印象も変わっていました。いい方向に。
誠実な人柄や真面目な政治姿勢とリアルタイムに評価できなかったのは残念だったなあ、と思っています。
安らかにお休み下さい。合掌。

見津毅さん没後20年で集会2015/06/07

6月7日夕、渋谷勤労福祉会館で、「ミツの魂100まで――見津くんとのお別れから20年の集い」が催された。「ミツ」とは1995年に、バイクの事故で夭折した見津毅さんのことだ。見津さんは早稲田大学在学中から際だった活動家で、国家秘密法反対運動、反天皇制運動、外国人労働者問題、野宿者支援、阪神大震災救援、戦後補償問題など様々な運動に係わり、多くの人びとに影響を与え、愛された若手のリーダーだ。なくなったときは社会新報記者だった。
ミツの魂100まで
見津さんの係わった多くの社会運動の中で、最も代表的なのは<秋の嵐>と言ってよいだろう。反天皇制全国個人共闘<秋の嵐>(当初は「緊急臨時共闘」と名乗った)は1987年の天皇法沖阻止闘争に参加するために見津さんが中心になって結成したグループだ。いわゆるノンセクト系だが、ヘルメットにヤッケ姿の定番スタイルと異なる「今風」の外見が特徴だった。活動も、政治集会や学習会ではなく、ギグ(コンサート)と寸劇などの街頭でのパフォーマンスが中心で、音楽活動をしているメンバーも多かった。
嵐・パフォーマンス
天皇が下血し、「X-day」が迫るなかで「歌舞音曲の自粛」ムードが広がり、全国の歩行者天国が中止になるなかで、当時<秋の嵐>がパフォーマンスの拠点としていた原宿の歩行者天国(ホコ天)も中止された。ブームとなっていたホコ天でのバンド演奏も事実上禁止されたが、<秋の嵐>は自粛を受け入れずに、ホコ天バンドのミュージシャンを巻き込んで原宿街頭でのパフォーマンスを続け、しばしば警察の介入を受けるようになっていった。
嵐・見津
89年1月に昭和天皇が死ぬと、「天皇が死んでも悲しくないぞー!」と明治神宮前に集まったところを警察に襲撃され見津さんを含む5人が逮捕された。翌週、これに抗議するギグを右翼と警官隊に襲撃され3人が逮捕されるなど、継続的な弾圧を受ける続ける。伝統的な活動家と異なる不慣れな若者たちが、国家権力から弾圧に耐えながら活動する姿は一定の共感を呼んだ。91年頃までの逮捕、ガサなどの度重なる弾圧を受けた。
秋の嵐旗
ちなみに<秋の嵐>の受けた弾圧の一部について国家賠償請求裁判(「さよならヒロヒト」原宿Xデー国賠)を提起し、原告3人の逮捕と1人への暴行について「違法」とし、賠償を命ずる判決を勝ち取った。見津さんの死後、97年11月に東京高裁で確定している。この種の公安事件としては極めてまれな勝利判決だと思う。

<秋の嵐>の仲間は見津さんが死んだ3月19日頃に、概ね毎年集まって偲んできたが、こうした中で見津さんと共に闘い影響を受けたのは<秋の嵐>だけではない、今年は死後20年だからちょっと盛大に、もっとみんなで集まってみないかという話になった。それから、実行委員会をつくって呼びかけて、実現したのが今回の集い。ちなみに6月7日という日取りには意味はない。
当日は、見津さんの古い仲間が60人以上が集まった。反天連、宗教者など<秋の嵐>に係わった先輩たち、法律家や救援関係者、ノンセクトや国会秘密法に反対する学生交流会の仲間、野宿者支援や戦後補償などなど見津さんが係わった様々な分野の活動家、旧社会党の同僚など、20年以上ぶりに顔をあわせた人も多い。今も何らかの拘りを持って活動を続けている人が多かったのは本当に嬉しいことだった。
高橋よしあきさん
当時よく歌ってもらった野良のニョキさんや、テーゼの高橋よしあきさん(withウィリー)の演奏を聴き、懐かしい影像を見ながら大いに語り合った。〆は、「天皇制打倒!安保法制粉砕!われわれは闘うぞ!」とシュプレヒコール。会館からのクレームをダマシダマシの充実した2時間半となった。2次会にも半数近くが残って、遅くまで旧交を温めた。
見津さんが亡くなって20年、それぞれの立ち位置も立場もまったく変わっているが、見津さんを思い出し、同じ時代を共に闘った仲間と原点を確かめ合うことができた良い会となったと思う。

広報ブレイス屋上で花火大会2013/08/03

8月3日は板橋の花火大会。
職場と関係の深い印刷会社・広報ブレイスの本社が花火大会会場に近いので、毎年鑑賞会が開かれている。僕は久しぶりに行った。
ミニコンサート
ミニコンサート、ビンゴ大会などなどもあり。
ビンゴ大会
人混みを気にせずのんびりと花火鑑賞できるのは最高。
花火
すぐに帰ると人混みがすごいので、近所に住んでる知人を呼び出して食事をしてから帰る。
翌日から原水禁大会に行くのに、かなり飲み過ぎてしまった。

もっこくの木を河口湖に2013/03/13

2月27日の「お別れの会」で、三宅坂の社会文化会館は完全閉館。解体作業に入る。
「お別れの会」の時、玄関前の警備の任務についていて気付いたのだけど、正面玄関向かって右の植込みに結党50年記念の植樹があった。今井総務局長に聞いたら、会館の解体と一緒に廃棄とのこと。
社文前植込み
うーん。
しょうがないけど、全林野労組様からいただいた記念の「もっこく」だよー。
「庭木の王」といわれる樹らしい。もったいないし、記念の植樹を廃棄するのもしのびないので、総務局長に断っていただくことにする。
3月3日の社文玄関
とりあえず、3月3日の日曜夕方にとりに行く自宅近くのホームセンターでスコップを買い、社文へ。三宅坂ではなにやらクレーンの積み下ろしをしていて246側は警備員が立っていて、追い返される。まあ、日曜の夕方にスコップ持って、解体待ちの廃ビルに乗り付けるなんて超怪しいわけだけど、事情を説明してなんとか入れてもらう。
もう、作業小屋が出来て、玄関も封鎖されている。
モッコクの木
もっこくの木はまだあった。
着いたのが4時半位で、だんだん暗くなる中を一人で穴掘るのは淋しい。
社文前掘り出した穴
回りから掘っていくと思ったより簡単に木が抜ける。
だいたい、植込みが小さくて、すぐにコンクリートらしき底にあたる。幅も狭いので、ぜんぜん根が張れていなみたい。植えてから20年近く経つ割にあまり育ってなかったのは、日当たりも悪いし場所も悪かったんだな。たぶん。
フリードのモッコク
車(フリード)の後部座席に軽く乗るかと思ったけど、実際に乗せたら結構でかい。助手席から3列目まで全部倒してなんとか押し込んだ感じ。
掘り出す作業より、車に押し込む方がすっと大変だった。一人だったから泣きそう。
河口湖のもっこく
さて、どうしようか。自宅マンションの共有部にこっそり植えちゃおうかとも思ったが、まあそういうわけにもいかないので、とりあえず河口湖のツリーハウスの近くに植えちゃおう。
1週間、車の中に積みっぱなしにして、3月10日に河口湖に。脱原発の行動なんかもいろいろある日だったが、この日に行かないとしばらく行けないので木が死んじゃいそう。まあ、木の命の方が大事だな。「命を大切にする政治」だし。
当家ツリーハウス
ということで、ツリーハウス前にいっこくの木植えました。
日当たりわりーし根付くか分からないけど、とりあえず、ということで。
もっといい場所があれば移してもいいし、当面、これで命をつないでもらえればいいかなと。
修理した階段
これだけで帰るのもなんなので、デッキから下りる階段の一番下の段が壊れていたのを直した。いい加減にやったので、隙間が空いているが、まあ実用上は問題ない程度。
落ちていたブランコを修理
さらに、片方のロープが切れて落ちていたブランコも応急修理。ぽつぽつ雨が降ってきて、全部取っ替えている余裕がなかったので、継ぎ足して結んだだけ。
ツリーハウス村前
ということで、まだうっすらと雪の残るツリーハウス村を後にする。
夕方、マンションの管理組合関係の会合があるので、温泉に寄ってささっと帰る。

中国へ植樹の旅2012/04/24

日中友好21の会の第12次植樹訪中団に家族で参加した。
日中友好21の会は民間の日中友好運動団体だが、元社会党副書記長の曽我祐次さんが会長を務め、社民党・旧社会党関係者とくに品川総支部の仲間が中心で運営している団体だ。12年前から毎年春に(昨年は震災のため秋に延期)中国を訪問して植樹を行なっており、「曽我団」とも称される恒例行事となっている。まあ、一度は行ってみるかと前から思っていたものだ。
第1回から10回までは陝西省咸陽市で行なったが、2011年からは河南省衛輝市に場所を変えて継続している。今回は2回目の衛輝市で植樹の後、後半は雲南省の観光。4月19日から24日まで、国会開会中に平日4日間も休むのは気が引けないでもないが、まあいいや。ちなみに自費参加だから、3人分60万円強です。とほほ。
4月19日は移動日。羽田→上海→鄭州→新郷。
4月20日は朝から植樹。衛輝市の唐荘鎮西山というところ。
河南省衛輝市植樹現場
植樹現場。結構手が入っていて、植えるばかりになっている。しかも実はすでに地元の農民の方々が穴を掘って、苗木を準備してくれている。あとは土をかぶせるばかりという至れり尽くせりなのだ。
土をかける
それでも高齢者が多いのでへろへろになっている人もいる。子どもはすぐに飽きてしまって、あたりを走り回るだけ。結局、農民の方に手伝っていただいた部分が非常に多く、マンパワーとしてはわざわざ日本から行ったほどの意味はないなぁ。日中友好という理念を大切にしましょうということだな。
38名の訪中団
御年86歳の曽我団長以下、最年少が10歳のうちの娘、全部で38人の訪中団。迷子にならなうよう、このどぎつい緑のジャンパー着用が義務づけられ、うちの家族にはかなり不評だ。
この後、衛輝市の唐荘鎮西山コミュニティ小学校を訪問し交流。文房具やサッカーボールなどを寄贈する。立って話しているおじいさんが曽我さん。
唐荘鎮西山コミュニティ小学校
その後、衛輝市内で市長の歓迎宴。鄭州に戻ってから、空港近くの凱芙建国ホテルで河南省の外事弁公室副主任の宴。中国の政治家の一つのパターンだが、どちらとも「カンペー、カンペー」ってご機嫌でどんどん飲む。酒に強くないと中国の政治家は務まらんなと思ったが、実際は下戸の人もおり、物静かな人も、謹厳実直なタイプもいるそうで、まあそりゃそうですな。河南の郭副主任には「北国の春」をアカペラで披露していただきました。なかなか上手。
21日は移動日。鄭州→昆明→麗江。
回るテーブル
麗江で夕食。子どもは回るテーブルが好き。まあ、僕も好きです。回るの。その後、古城の中のホテルまで、ガイドさんに古城内を引き回される。
僕は9年前にも麗江・古城に来たことがあるのだが、だいぶ観光地化が進んだ印象。派手な音楽を鳴らしているバーがならび、ケンタッキーとかハーゲンダッツとか外資系の店舗が多くなったような気がする(←厳密に数えたわけではない)。世界遺産になって、豊になった中国人のあこがれの観光地になっているとのこと。
麗江古城で
ナシ族が他の少数民族の影響を受けながら作り上げた麗江・古城。趣のある景観を再び見るのを楽しみにしていたのだが、テーマパーク化が進んだ感じで少しさびしい。ホテルに着いたのは11時過ぎでみなへろへろ。
20元の織物を買う
翌朝は玉龍雪山へ。娘は古城の路上で売りつけられた20元の織物を羽織ってご機嫌です。玉龍雪山は結構寒いのでちょうどよかった。
以前は直接車で麓に乗り付けて、スキー用のリフトのようなもので山頂近くまで行ったと記憶しているが、世界遺産になって観光客が増えたとかで施設もかなり整備され、輸送力が増強されている。だいぶ手前で「エコバス」に乗り換えて麓に行って、8人乗りのゴンドラで上って、そこから電動カートに乗る。いちいち行列でなかなかすすまんのです。
玉龍雪山でヤク牛
9年前に来たときとは様変わりで驚く。建物の表示によると、2008年頃にリニューアルしたみたい。ヤク牛がうろうろしているのはかわらない。
玉龍雪山
後ろが玉龍雪山。ナシ族の信仰の対象でもある。標高は5596メートルでシャングリラより低いものの急峻な地形のため人類未踏の処女峰だとのこと。ロープウェーや電動カートで上れるのは4500メートまで。さすがに結構寒いです。9年前に来たのは8月で、同じところまで来たのだが、霧がかかっていて玉龍雪山の山頂は見えなかった。今回はハッキリ見えたので運がいいらしい。
玉龍雪山から下りて白沙へ。有名な壁画を見た後、街を散策。街中の食堂で昼食をとる。
白沙
昼食後は美術品を売っている店によってから東河古鎮へ。距離的にはすぐそばのようで、バスで10分程で到着。古城ほどではないけ白沙も東河古鎮も、かなり観光地化しているなぁ。東河古鎮では高倉健の「単騎、千里を走る」のロケが行なわれたそうで、日本人の観光客が増えているんだそうです。
東河古鎮
ガイドさんが「ちゃまこーど、ちゃまこーど」って言ってたがなんだろうと思っていたら、このあたりは「茶馬古道」といって雲南とチベットを結ぶ交易路だったそうな。唐の時代から雲南の茶と、チベットの馬の貿易があって、茶馬古道は「もうひとつのシルクロード」とも言われるらしい。雲南からラサまで2000キロ程の道程だったとのこと。子どもは馬車に乗って大喜びだったが、僕はデジカメを落として壊してしまいガックり。ここからは予備の別カメラ。
翡翠の土産物屋に連れて行かれた後、再び古城に。ナシ族のガイドのお姉さん、すぐに土産物店に連れて行こうとするんだわ。
麗江で夕食のあと、麗江駅に。麗江から昆明までは夜行列車で1泊。10時少し前に麗江駅を出て朝7時頃昆明駅に到着。子連れだからとVIPルームを割り当ててもらったが、それでも狭い狭い。まあ、子どもは大喜びだし、星を見ながら眠る夜行列車の旅も良い経験となった。昆明から30時間以上かけて北京に行くような列車も普通にあるようで、寝台列車はめずらしくないとのこと。
昆明駅
↑昆明駅で大量の荷物を運ぶポーターさんに見とれる。
4月23日。昆明駅近くのホテルで朝食後、西山竜門に。清代に神のお告げを聞いた僧が70年以上かけて作りあげたとかで、道教信仰の中心だと。「竜門」は「登竜門」の語源だそうで、触ると出世するらしい。一応ぐりぐり触っておいた。長い石段を登っていくと、昆明湖を一望する絶景スポットとなる。
目的地の近くまで行って、エコバスに乗り換えて、さらに電動カートに乗り換えてすすむというのは、中国の観光地の最近のパターンになっているような感じだ。歩いて上る信者らしき集団とすれ違う。
西山竜門
この後、バスに乗り石林へ。昆明市街から100キロほど東にある名勝地で、海の底だったところが2億7000年かけて隆起した石灰岩のカルスト台地だ。長年の風化で石の林のようにも見え、2007年には世界遺産に認定されている。
石林
とにかく、ものすごい人。昆明からバスで1時間以上かかり、さらに電動カートを乗り継いで来るのだが、中心部はどこから来たのか通勤ラッシュの駅のホームのような混雑だ。
石林ではしゃぐ
まあ、石の林のような石林の景色は興味深いもので、一度は見ておいて損はない。こういう機会でもないとなかなかここまで来ないような気もするし。
石林の景色
と、いうことで石林一通り見てから、昆明に帰って最後の晩餐。翌24日は、上海経由で帰国だ。
そもそも5泊6日で、河南省から雲南、麗江というのはかなり苦しい日程だ。移動の時間が長く、1泊は寝台列車泊というハードな旅を、高齢者中心のこの訪中団でよくやったなというのが正直なところ。受け入れてくれた中連部(中国共産党中央対外連絡部)には相当なご苦労をおかけしたかなーと思います。ありがとうございました。
僕は9年前に北京、上海と雲南・麗江に来たことがあるのだが、その時と比べてだいぶ変わったように感じた。全体に人が多くなって、どこに行っても混雑がひどい。人口が急に増えたわけではないので、やはり経済成長によって観光に行く人が増えてきたというのは本当だなー、人間の移動が活発化しているのだなーということを実感した。
高度経済成長期の農協旅行のような(←勝手なイメージですが)団体旅行でぞろぞろ歩くのは、団体行動が苦手なつれあいと子どもにぶーぶー言われたけど、僕的にはお任せで気楽な面もあってたまにはアリかな、って感じでした。

福島第一原発事故概況2011/03/16

福島第一原発3月16日
 福島第一原発の状況は、事故発生から5日たった今日(3月16日)に至っても、落ち着く様子がない。一つ一つ歴史的な大事故が次から次へと起こって、原子炉建屋で爆発が起こったくらいでは驚かなくなっているというすさまじい状況だ。
 ついには当初、定期点検で停止中だった4号炉まで、火をふいてしまう始末。  あっちもこっちもトラブルで、すでに何が何だかわからなくなっているのが正直なところ。服部良一事務所森原秘書が、現状を便利な一覧表にまとめてくれたので参考まで掲載した。(3月16日朝現在)
 こういうのがあったら便利だと思っていたのだが、刻一刻と状況が変わるのでなかなか作れずにいたもの。(クリックで拡大します)

適宜更新される予定なので最新版は下記から見て下さい。↓
福島第一原子力発電所等の事故概況(服部良一事務所)

東北関東大震災を受けた国会対応について2011/03/14

東北関東大震災受けた国会対応
 3月14日13時から、与野党幹事長・国対委員長会談。東日本大震災を受けて177通常国会の自然休会に合意。自公からは、震災対策のために国会法に基づいた休会とする案が出されていたたが、13日に衆参両院の正副議長が「国会が急に対応しなければならない事態もあるので臨機応変に対応する」ことも必要として、国会法上の休会としないことで一致。自主的に必要最低限の課題以外は審議を控える方向で合意するに至ったものだ。
 2011年度予算関連法案のうち、3月末で効力が切れる税の減免措置等を延長する「つなぎ法案」や、統一地方選の日程変更のための法案が審議される見通し。13日午後に民主党の安住淳国対委員長と会談した自民党の逢沢一郎国対委員長は国会審議への協力に応諾し、予算関連の地方交付税法改正案にも賛成する考えを表明した。税減免のつなぎ法案と地方交付税法改正案の年度内成立は確実となった。
 社民党も原則合意。統一選の日程については一律ではなく地域の事情に応じた対応とすること、予算関連法案については審議日程については協力するが賛否については従来方針通り個々の内容に応じて判断することを確認した。

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東北関東大震災を受けた国会対応について

2011年3月14日


 東北関東大震災を受けた国会対応について、政府与党として次のとおり要請する。

1、被災地住民の生活の復旧を優先するため、臨機応変、迅速かっ柔軟な国会対応を行うこと。阪神淡路大震災時の対応にならい、確定申告、旅券、免許更新の延期など生活支援に関わる法律改正が必要となる場合は早急に対応する。

2、平成23年度予算案を速やかに成立させていただきたい。審議日程など具体的な方策については、各党間で協議したい。

3、統一地方選の日程を延期するための特例法案を検討しており、週内の成立をめざしたい。

4、予算関連法案のうち、以下に掲げるものについて、年度内成立を期すため、審議日程の短縮などあらゆる面で各党の協力を要請したい。
①国税つなぎ法案、関税定率法、 IMF加盟法、金融円滑化法
②地方税つなぎ法案、地方交付税法、公害財特法、 NHK予算
③子ども手当つなぎ法案
④内閣府設置法
⑤ HNS協定、在外公館法
⑥教職員定数法
⑦家畜伝染病予防法
⑧踏切道法、港湾法

5、政府に対する各議員からの個別の問い合わせは、当面できるだけお控えいただきたい。

6、政府に対する質問主意書の提出は、当面できるだけお控えいただきたい。また、すでに提出されている質問主意書に対する答弁が遅延することについてもご了承願いたい。

7、3月中に提出予定の閣法については、提出時期を 4月以降に延期するのでご了承願いたい。
以上

米軍従業員不当解雇で申し入れ2010/12/10

防衛相申し入れ
 福島党首と照屋議員が防衛省に申し入れにいくのに同行した。
 海兵隊のキャンプ瑞慶覧で自動車機械工として働いていた安里治さんが、米国人上司のパワハラで不当に解雇された件について。安里さんが、解雇処分を承認した国を相手に解雇無効と解雇後の賃金の支払いを求めた訴訟の控訴審判決が12月7日にあり、福岡高裁那覇支部(橋本良成裁判長)は「制裁解雇は無効」と断じた。未払い賃金の支払い額は一部減額されたが、一審の那覇地裁判決と同じ原告勝利の判決だ。
 安里さんは、2007年1月の米国人上司に対する発言を口実に同年12月に懲戒解雇された。「ウチクルス」(懲らしめてやる)と言ったことを、「殺すと脅迫した」とされたもので、国側は「殺す」と発言したとして争った。
 今年4月の那覇地裁判決は、発言について「上司に対する不満等を暴力的な言葉を使用した表現にとどまり、解雇事由に当たらない」とし、解雇無効とその間の賃金のほぼ全額の支払いを命じていた。これに対して国側が控訴。沖縄防衛局は「事実認定や判断を認めれば、駐留軍等労働者の円滑な労務管理や基地内職場の秩序維持に重大な影響があり容認できない」としていた。高裁は和解を勧告し、国が在沖米4軍に復職の受け入れを打診したが、「米軍側の受け入れ見込みは厳しい」として和解協議は決裂していた。
 基地従業員の法的な雇用主は日本政府で、米軍施設で米軍の指揮命令を受けて就業する。国家による派遣労働のような仕組みになっている。日本の裁判で解雇無効の判決が確定した場合でも、「諸機関労務協約」を根拠に米軍側が復職を拒むことが出来るとされている。
 そんなアホな。日本で日本人の労働者を働かせているのだから、日本の法制度に従うのは当然じゃないか。勝手な誤解に基づいて不当に労働者の生活を奪って地裁でも高裁でも負けて、なお判決に従う気はないとはどーゆーことか。抑止力がどうことか、普天間や辺野古をどうするといったたいそうなことを言っているわけではない。こういう日常的な関係のなかで米軍の傲慢な本音や、防衛省の属国根性が表わているのである。日米同盟が大事だとか大声でいってる人たちは、こういう当たり前のことをちゃんとさせるべきだとなぜ考えないのか。駐留する国の法律は無視して都合のいいように勝手に振る舞う外国軍隊。それに唯々諾々とヘツらう政府。沖縄の人が怒るのはしごく当然だ。
 照屋議員は北澤防衛相に対して、沖縄の方言では「クルス」というのは懲らしめると言う意味で「殺す」と言うときは「死なす」と言うんだ等々柔らかく説明しつつ、ちゃんと復職させるように厳しく迫った。北澤大臣の答はあいまいな感じ。日米地位協定と労務提供契約の見直しについては、外務省に言えとのこと。
――――――――――――――――――――――――――――――
 基地内での労働力を求める米軍と防衛省が締結した労務提供契約は3種類の協約がある。諸機関労務協約(IHA)、基本労務協約(MLC)、船員契約(MC)の3つである。防衛省が労働者を雇用し、協約に基づいて労務を在日米軍に提供。両者が分担して労務管理を行っている
・基本労務契約は、会計事務職、重車両運転手、フォークリフト運転手、エンジニアリング専門職、警備員、消防士など。
・船員契約は、船長、機関長など。
・諸機関労務協約は販売員、コック、ウェイター、ウェイトレスなど。
――――――――――――――――――――――――――――――
2010年12月10日
防衛大臣
北澤俊美殿
衆議院議員 照屋 寛徳
参議院議員 福島みずほ
参議院議員 山内 徳信

不当解雇された米軍基地従業員の即時復職等に関する要請

 去る12月7日、元在沖米軍基地従業員・安里治氏が米国人上司のパワーハラスメントによる制裁解雇(懲戒解雇)の無効等を求めた訴訟の控訴審判決が福岡高裁那覇支部で、あった。判決は、一審に続いて解雇無効を認定し、「本件制裁解雇には制裁解雇事由が認められず、(中略)解雇権濫用に該当する」と結論づけた。まさしく安里氏の全面勝訴である。
 また、本件控訴審をめぐっては、日本の裁判で解雇無効の判決が確定した場合でも、現行日米地協定とそれに基づく諸機関労務契約(IHA) を根拠に米軍が復職を拒否できることが明らかになった。判決は、この点についても「『安全上の理由による解雇事案』に該当しないことは明らか」 と協約運用のあり方にまで踏み込んでいる。
 安里氏の最大の目的は即時復職である口法的雇用主たる防衛省は、司法判断を真撃に受け止め、下記について適切かっ実効性のある措置を講じられたい。



1. 政府は上告することなく、当該基地従業員@安里治氏の即時復職実現に向けて最大限の努力を尽くすこと
2. 政府は日米地協定を抜本改正し、基地従業員の権利が正当に確保されるよう諸機関労務契約(IHA) をはじめとする3つの労務提供契約を見直すこと。


以上

社民党新宿総支部定期大会2010/10/30

社民党新宿総支部定期大会
 10月30日。社民党新宿総支部第15回定期総支部大会。台風の大雨の中、新宿区役所裏のルノアール会議室にて開催。
 かつて20年近く前に社会党に入党した頃、新宿に住所があったので新宿総支部に入党。現在は、江東区在住で新宿に関わりはないのだけど、党籍はそのまま新宿総支部に置いてあるのです。なかなか地域の活動にまで参加する余力がなく実質的には幽霊党員で、居住していなくても支障がないので、そのままにしている。せめて年1回の大会くらいは参加しようかと思って、大雨の中をかけつけた次第だ。
 新宿は都内では比較的党員数も多い方で、区議会議員でもある河野幹事長も真面目な人なので、まあまあ堅実に回っている様子。高齢化や党員減など党全体の傾向から無縁ではないが。
 この日の参加者には、新宿総支部の重鎮・四谷信子元都議の新著『あつオンナ党員の半生』(労働者運動資料室刊)が配られラッキーだ。四谷さんは93年に都議を引退されているから、かなり高齢のはずだがまだまだお元気そう。十分現役行けそうな雰囲気でした。引退が早すぎたんじゃないでしょうか。

上関原発予定地・岩国米軍住宅予定地視察(岩国)2010/09/27

  9月27日~28日、「『上関原発建設予定地』並びに『岩国米軍基地建設予定地』社民党国会調査団」の一員として、山口県と広島県に行ってきた。福島党首、重野幹事長以下、金子哲夫中国ブロック議長、山本宏山口県連合幹事長、山下隆夫山口県連副代表、原田正山口県連常任幹事、松江和男山口県連常任幹事、服部良一議員秘書の市来さんと福田さん、照屋寛徳秘書の塚田さん、本部国民運動の増田さん、という豪華メンバー。何しろ多忙な党首と幹事長が揃って視察に行くというのは滅多にないことだ。
 東京組は朝7時10分の新幹線に乗らなければならなかったのだが、豪雨。総武線が遅れて、東京駅では5分で乗り換えないといけないハメに。東京駅の果ての総武・横須賀線ホームから死ぬ気で走って、ギリギリセーフ。激走のため息が上がってしまって、しょっぱなからヘロヘロだ。広島でこだまに乗り換え、11時29分新岩国駅着で合流。ミニバン2台に分乗して、まずは愛宕山へ。無所属の岩国市議・田村順玄さんや愛宕山を守る会世話人代表の岡村寛さんの案内で愛宕山の開発事業地を視察した。
愛宕山
 愛宕山地域開発事業は米軍岩国基地の滑走路沖合移設事業と連動して97年に始まったニュータウン事業だ。岩国市中心部近くの愛宕山を削って岩国基地沖の埋め立て用土砂として利用し、掘削後の台地に約5600人が住む住宅地を整備する計画だった。基地の埋め立ては出来たが、跡地の開発はうまくいかず2007年に中止。山口県は国に買取を打診したのをうけ、米軍住宅の候補地とされた。
愛宕山
 さる9月3日に、榛葉賀津也防衛副大臣が二井関成山口県知事、福田良彦岩国市長と会談し、愛宕山地域開発事業跡地に米軍住宅を建設する計画を正式に伝え、市民の不安が高まっている。愛宕山は岩国市街に近い一等地で、住宅も多いため、付近の住民には反対が根強いのである。
愛宕山住民と意見交換
 福祉施設やスポーツ施設等が建設される予定の東側エリアを愛宕神社近くの空き地から視察。視察後、弁当をかっこんでから隣接住宅団地の集会所で近隣住民らと意見交換した。なにげに井原前市長が参加されていたのにビックリ。
岩国市街、岩国基地
 途中、高台から岩国基地を見るが、雨の中なのでもやってあまりよく見えない。黒いパラボラアンテナが付いているのが米軍人居住の住宅とのこと。沖縄のなんかと比べても多い印象。車で岩国飛行場の埋め立て場所付近まで行ってから岩国市役所に立ち寄って、トイレ休憩。
岩国市役所前
 すると、福田現市長があらわれる。予定になかいことだったので、具体的な話はせず、あいさつ程度の立ち話で立ち去る。
 岩国基地自体はこれまでのも何度か視察に来たことがあるし、基地内にも入って埋め立て現場に立ったこともあるのだけど、愛宕山に来たのは今回が初めて。いやいや本当に山一つつぶしちゃったんだな。愛宕山は市街地にも近く、市民の中の存在感も大きい。このあたり、少し認識が弱かったと反省。
 祝島に向かうため岩国市を後に、上関の室津港に向かう。
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                                                                        2010/09/27
                         岩国飛行場問題について(メモ)
1、経緯
  ・1993年3月 岩国基地沖合移設工事への土砂提供と宅地造成を目指す愛宕山地域開発事業基本構想策定
  ・1997年6月 沖合移設工事起工式(12月に愛宕山事業起工式)
  ・2005年10月 在日米軍再編「中間報告」に空母艦載機の岩国移転が盛られる
  ・2006年3月 米空母艦載機の移駐案受け入れの賛否を問う住民投票で反対が多数(賛成5,369 vs 反対43,433、反対87%)占める
  ・2006年4月 8市町村合併で誕生した新岩国市長選挙で井原勝介旧市長が当選
  ・2006年5月 2+2共同発表「再編実施のための日米のロードマップ」
  ・2006年10月 岩国市議選。移転容認・反対両派きっ抗。後容認派が3分の2に
  ・2007年6月 井原市長・西村副知事、愛宕山事業中止、跡地転用で合意
  ・2007年12月 新庁舎建設補助金をめぐる市議会との対立で井原市長が辞職
  ・2008年2 月 出直し市長選で福田良彦前衆院議員が井原前市長を破り初当選
  ・2009年1月 県都市計画審議会が愛宕山事業中止に伴う都市計画変更案を可決
2、米軍再編と米空母艦載機の移駐
     05年10月の米軍再編中間報告と昨年5月の最終合意では、厚木基地から空母艦載機59機を、また普天間飛行場からKC130空中給油機12機を、岩国飛行場に14年までに移転することが明記された。岩国基地所属の米軍機は現在の57機から120機に膨らむ。06年3月、当時の井原(旧)岩国市長は移転の賛否を問う住民投票を実施し、反対票が87・4%を占めた。合併後初の4月の市長選では移転計画撤回を訴えて当選し、国に計画撤回を求めた。国はこれを受け新庁舎建設への補助金を打ち切った。補助金は、沖縄の基地縮小に絡む96年の日米特別行動委員会(SACO)合意で、前市長が普天間の空中給油機を受け入れた事実上の見返りで、市は建設費の6割にあたる49億円を補助金でまかなうことを想定していた。補助金をめぐる市議会との対立し井原市長は辞職、出直し市長選では容認派の福田良彦氏が当選した。
3、愛宕山米軍施設建設計画案
   愛宕山地域開発事業は米軍岩国基地の滑走路沖合移設事業と連動して97年に始まったニュータウン事業。岩国市中心部近くの愛宕山を削って基地沖の埋め立て用土砂として利用。掘削後の台地に約5600人が住む住宅地を整備する計画だったが、2007年に中止された。山口県は国に買取を打診したが、防衛施設庁(当時)は「米軍住宅の候補地の一つ」と回答していた。
   9月3日、榛葉賀津也防衛副大臣は二井関成山口県知事、福田良彦岩国市長と会談し、愛宕山地域開発事業跡地に米軍住宅を建設する計画を正式に伝えた。跡地西側に低層の270戸(全体の4分の1)の米軍住宅を建設し、東側エリアには野球場やソフトボール場等のスポーツ施設を建設し開門時は市民も原則出入り自由とするなどとしている。岩国市長と山口県知事は「地元への配慮」を評価し前向きな態度を示しているが、米軍区域の拡大に他ならず住民の中には反対論も強い。