被爆66周年原水禁世界大会はじまる ― 2011/07/31
7月31日、被爆66周年原水爆禁止世界大会がはじまった。今年の大会は、福島大会からスタート。3月の福島第一原発事故を受けて、福島大会を開くことが決まった。
例年、原水禁大会は8月4日~6日が広島大会、7日~9日が長崎大会というスケジュールが恒例。広島大会前に国際会議を東京・京都や広島などで開いたことや、長崎大会の後に沖縄大会を開いたことはあったが、東北地方で原水禁大会を開くのはもちろんはじめて。今年は、長崎大会後に11日に沖縄大会もある長丁場だ。
もともと福島第一原発事故への対応でてんてこ舞いのところ、急遽決まった初めての大会受け入れ、さらにこの日は震災の影響で遅れた福島市議会議員選挙の投開票日。大丈夫かいな、と実は思っていたんだわ。全国からの参加者にはフィールドワークなどの企画もあったが、僕はとりあえず日帰りで様子を見に行ってきた。
13時から、福島駅からも近い「街なか広場」で、「放射能のない福島を返せ!原発のない福島を求める県民集会」。福島県平和フォーラムが主催したもので、前段集会的な位置づけだ。雨が降ったり止んだりのあいにくの天気の中、会場一杯の1700人が集まった。

お約束の、福島県平和フォーラムの竹中柳一代表の主催者あいさつ、原水禁国民会議の川野浩一議長の連帯あいさつに次いで、各地からの現状報告。計画的避難地域に指定された飯舘村の青年、警戒区域になった浪江町から南相馬市に避難している教員、郡山市の母親から報告。今後の運動提起を原利正・県平和フォーラム事務局長が行なった。
いやいや、盛況なのはいいが、入りきらない人が会場からあふれている。ステージの音も後ろの方だと今ひとつ聞き取れないし。ちょっと、会場が狭かったんではないべか。全国から社民党の仲間や原水禁の仲間が集まっているので、うろうろしながら世間話をして歩く。
集会アピールの確認後、繁華街を一周するデモ行進。集会には、韓国、台湾、タイ、インドなど、アジア各国からも活動者が参加していたとのこと。

本大会は15時から、駅前の辰巳屋ホテル・ホール。黙祷の後、川野浩一原水禁議長、竹中柳一・県平和フォーラム代表のあいさつに次いで、藤本泰成原水禁事務局長からの大会基調提起。双葉地区原発反対同盟の石丸小四郎さんの現地報告に次いで、作家の鎌田慧さんの講演「福島第一原発事故のもたらしたもの~3・11以降の世界」。
鎌田さん、木訥となかなかいい話。広島に原爆が落とされても日本はすぐに戦争を止められず、長崎にも原爆が落とされてしまった。われわれも福島原発の事故を見ても、原発を止められていない。また事故が起きてからでは遅い」と、『さようなら原発1000万人アクション』の署名や9・19集会への参加を訴えた。関係ないけど、田さんの『日本の原発地帯』を、20年以上前に読みました。名著です。僕の原発理解の基本になっています。

鎌田さんの話の後、3人から連帯メッセージ。
長崎で被爆した奥村英二さん(長崎県平和運動センター被爆者連絡協議会事務局長)、1954年にビキニ環礁でヒバクした大石又七さん(元第五福竜丸乗組員)、チェルノブイリ原発事故の被災者支援をするアントン・ブドビチェンコさん(NGOラジニシ・チェルノブイリの子どもたち)らが発言。時間が短かったのが残念でしたが、、みなよい発言でした。

参加者850人。会場は超満員で、最前列の前にまで座り込む。資料も足りない。
震災に加え、市議会議員選挙の投票日ということもあって、公的な場所が借りられず、大きい会場が確保出来なかったのこと。こうギュウギュウでは困るけど、まあスカスカよりはいいかな。
広島大会まで数日あるので、いったん帰る人がほとんどのようだけど、流れていく人にとっては12日間の長い長い原水禁大会。ぜひ成功させたい。
広島と長崎に行ってきました ― 2010/08/09

今年も原水禁大会に行ってきた。87年から原水禁運動に関わって、88年の被爆43周年大会以来ほぼ毎年行っている。最初の数年間は原水禁国民会議事務局のバイトとして下働き、その後の数年は社会党出版部の取材として、96年から98年までの3年間は原水禁国民会議と大会実行委員会の事務局次長として、99年以降は社民党政審から政策面での連携をはかるためとして参加している。
まあ、長年の経緯もあるからしょうがないかって雰囲気で行かせてもらっている感じだが、実際に全国の平和運動や反原発運動の活動家と情報交換したり、分科会の講師として呼ばれている先生方と意見交換するまたとない機会なんだよね。
今年は、臨時国会の日程と一部ダブり、議員会館の事務室の引越の準備とも重なったので、同僚のみなさんにだいぶ惑をかけてしまった。帰京の翌日(8月10日)の朝から引越だというので、僕の場合は出発前に自分の分の荷造りを終えておかないといけないということで、8月3日の深夜まで段ボールに資料をぶち込むという作業をして、強行日程で参加することになった。
まあ、長年の経緯もあるからしょうがないかって雰囲気で行かせてもらっている感じだが、実際に全国の平和運動や反原発運動の活動家と情報交換したり、分科会の講師として呼ばれている先生方と意見交換するまたとない機会なんだよね。
今年は、臨時国会の日程と一部ダブり、議員会館の事務室の引越の準備とも重なったので、同僚のみなさんにだいぶ惑をかけてしまった。帰京の翌日(8月10日)の朝から引越だというので、僕の場合は出発前に自分の分の荷造りを終えておかないといけないということで、8月3日の深夜まで段ボールに資料をぶち込むという作業をして、強行日程で参加することになった。
安保理で「核なき世界」決議 ― 2009/09/25

9月24日、国連安全保障理事会は核軍縮・不拡散をテーマにした初の首脳級会合を開催し、米国が提出した「核兵器のない世界」に向けた取り組みについての決議案を全会一致で採択した。安保理として初めての決議だ。
今回初めて安保理議長を務めたオバマ米大統領は「歴史的な決議だ」と意義を強調した。5常任理事国からはオバマ氏のほかロシアのメドベージェフ大統領、中国の胡錦濤国家主席、ブラウン英首相、フランスのサルコジ大統領の各首脳がそろい、鳩山首相を含む10非常任理事国の首脳らも出席した。
鳩山首相は「世界の指導者にぜひ広島、長崎を訪れて核兵器の悲惨さを心に刻んでいただければと思う」と呼びかけた。被爆国の責任として「日本は核兵器開発の潜在能力があるにもかかわらず、核軍拡の連鎖を断ち切る道を選んだ」と強調、北朝鮮の核問題に直面しながらも核軍拡競争には加わらない立場を鮮明にし、非核三原則の堅持を表明した。鳩山首相は英語で演説したが、国連の演説は通常は母国語で行なうので、日本語で演説すべきではなかったかという批判もあるが。内容は具体性があるとはいえないかもしれないけど、まあ良かったのでは。
―――――――――――――――――――――――――――
核不拡散・核軍縮に関する国連安保理首脳会合の決議(要旨)
(前文)
安全保障理事会は、核不拡散条約(NPT)の目標に沿って、核兵器のない世界に向けた条件を構築することを決議する。
すべての加盟国に軍縮に関する義務の履行や大量破壊兵器の拡散防止を求めた、92年1月31日の国連安保理首脳会議での声明を再確認する。
大量破壊兵器の拡散や運搬は国際的な平和や安全保障を脅かすことを再確認する。
NPTは核不拡散体制の礎で、核軍縮の追求や核の平和利用に不可欠な基礎だと強調する。
核兵器国による核軍縮の努力を歓迎する。
米ロの第1次戦略兵器削減条約(START1)後継に向けた交渉決定を歓迎する。
非核兵器地帯条約の締結に向けた取り組みを支持する。
09年の1874決議(対北朝鮮制裁決議)や08年の決議1803(対イラン追加制裁決議)を再確認する。
核テロの脅威に深刻な懸念を表明し、テロリストを利する核物質・技術支援を防ぐ効果的な措置をすべての国が取る必要性を認識する。
来年の核安全保障サミットの開催を支持する。
(本文)
核不拡散の義務を順守しない状況は安保理で問われることとなり、国際的な平和や安全保障への脅威となるか見極めることを強調する。
NPT締約国に、NPTに基づき義務を全うすることを求め、NPT非加盟国には、非核兵器国としてNPTに加盟するよう求める。
来年のNPT再検討会議がNPTを強化するものとなり、核不拡散・核の平和利用・核軍縮というNPTの3つの柱に現実的かつ達成可能な目標を設定できるよう、NPT加盟国に協力を求める。
すべての国に対し、核爆発実験をせず、包括的核実験禁止条約(CTBT)に署名、批准するよう求める。
兵器用核分裂性物質生産禁止条約(カットオフ条約)の早期交渉入りを求める。
核燃料サイクルへの多国間の取り組みに関する国際原子力機関(IAEA)の作業を奨励する。
IAEA追加議定書への署名や批准、履行をすべての国に求める。
NPTを脱退した国は、脱退以前のNPT違反について責任を負うことを確認する。
今回初めて安保理議長を務めたオバマ米大統領は「歴史的な決議だ」と意義を強調した。5常任理事国からはオバマ氏のほかロシアのメドベージェフ大統領、中国の胡錦濤国家主席、ブラウン英首相、フランスのサルコジ大統領の各首脳がそろい、鳩山首相を含む10非常任理事国の首脳らも出席した。
鳩山首相は「世界の指導者にぜひ広島、長崎を訪れて核兵器の悲惨さを心に刻んでいただければと思う」と呼びかけた。被爆国の責任として「日本は核兵器開発の潜在能力があるにもかかわらず、核軍拡の連鎖を断ち切る道を選んだ」と強調、北朝鮮の核問題に直面しながらも核軍拡競争には加わらない立場を鮮明にし、非核三原則の堅持を表明した。鳩山首相は英語で演説したが、国連の演説は通常は母国語で行なうので、日本語で演説すべきではなかったかという批判もあるが。内容は具体性があるとはいえないかもしれないけど、まあ良かったのでは。
―――――――――――――――――――――――――――
核不拡散・核軍縮に関する国連安保理首脳会合の決議(要旨)
(前文)
安全保障理事会は、核不拡散条約(NPT)の目標に沿って、核兵器のない世界に向けた条件を構築することを決議する。
すべての加盟国に軍縮に関する義務の履行や大量破壊兵器の拡散防止を求めた、92年1月31日の国連安保理首脳会議での声明を再確認する。
大量破壊兵器の拡散や運搬は国際的な平和や安全保障を脅かすことを再確認する。
NPTは核不拡散体制の礎で、核軍縮の追求や核の平和利用に不可欠な基礎だと強調する。
核兵器国による核軍縮の努力を歓迎する。
米ロの第1次戦略兵器削減条約(START1)後継に向けた交渉決定を歓迎する。
非核兵器地帯条約の締結に向けた取り組みを支持する。
09年の1874決議(対北朝鮮制裁決議)や08年の決議1803(対イラン追加制裁決議)を再確認する。
核テロの脅威に深刻な懸念を表明し、テロリストを利する核物質・技術支援を防ぐ効果的な措置をすべての国が取る必要性を認識する。
来年の核安全保障サミットの開催を支持する。
(本文)
核不拡散の義務を順守しない状況は安保理で問われることとなり、国際的な平和や安全保障への脅威となるか見極めることを強調する。
NPT締約国に、NPTに基づき義務を全うすることを求め、NPT非加盟国には、非核兵器国としてNPTに加盟するよう求める。
来年のNPT再検討会議がNPTを強化するものとなり、核不拡散・核の平和利用・核軍縮というNPTの3つの柱に現実的かつ達成可能な目標を設定できるよう、NPT加盟国に協力を求める。
すべての国に対し、核爆発実験をせず、包括的核実験禁止条約(CTBT)に署名、批准するよう求める。
兵器用核分裂性物質生産禁止条約(カットオフ条約)の早期交渉入りを求める。
核燃料サイクルへの多国間の取り組みに関する国際原子力機関(IAEA)の作業を奨励する。
IAEA追加議定書への署名や批准、履行をすべての国に求める。
NPTを脱退した国は、脱退以前のNPT違反について責任を負うことを確認する。
60年たっても放射線 ― 2009/08/07

長崎原爆の日を前にして、興味深い写真が報道された。長崎原爆で死亡した被爆者の体内に取り込まれた放射能が、被爆から60年以上たった今も放射線を放出している様子を撮影したというのである。撮影したのは長崎大の七条和子助教らの研究グループ。
爆心地から0・5~1キロの距離で被爆、急性症状で1945年末までに亡くなった20~70代の被爆者7人の解剖標本を研究していたという。
アルファ線が、被爆者の肺や腎臓、骨などの細胞核付近から放出され、黒い線を描いている様子の撮影され、アルファ線の跡の長さなどから、長崎原爆に使われたプルトニウムによるものとほぼ確認された。
小さなニュースだけど、こりゃすごいことだよ。長年、軽視され続けてきた内部被ばくの事実が、ずばり撮影されているわけだから。やはり体の中に放射能を取り込んでしまうということは大変なことだ。低線量被ばくの危険がこれまで言われていたよりずっと大きいのではないかということも議論されるようになってきたし、内部被ばくの証拠もこれだけはっきりと撮影されたわけだから、被ばくの影響についてもう一度、根本的な再検討を行なうべきではないか。DS86 (被曝線量評価)だDS02 だ原因確率だと言ってる場合じゃないって。
細胞の中に取り込んで60年後にこんだけハッキリアルファー線が写っちゃうんだから、内部被ばくの影響は相当大きいのはまちがいないよ。残留放射線や放射性降下物、内部被ばくの影響についてきちんと再評価して、原爆症の認定基準についても根本的に見直す必要があるだろう。
へんな政治的配慮で緩めるんじゃなくて、きちんと被ばくの影響を再評価した方がいい。もちろん高齢な被爆者には時間がないので、救済は救済で即刻行うべきなのは当然ですよ。
爆心地から0・5~1キロの距離で被爆、急性症状で1945年末までに亡くなった20~70代の被爆者7人の解剖標本を研究していたという。
アルファ線が、被爆者の肺や腎臓、骨などの細胞核付近から放出され、黒い線を描いている様子の撮影され、アルファ線の跡の長さなどから、長崎原爆に使われたプルトニウムによるものとほぼ確認された。
小さなニュースだけど、こりゃすごいことだよ。長年、軽視され続けてきた内部被ばくの事実が、ずばり撮影されているわけだから。やはり体の中に放射能を取り込んでしまうということは大変なことだ。低線量被ばくの危険がこれまで言われていたよりずっと大きいのではないかということも議論されるようになってきたし、内部被ばくの証拠もこれだけはっきりと撮影されたわけだから、被ばくの影響についてもう一度、根本的な再検討を行なうべきではないか。DS86 (被曝線量評価)だDS02 だ原因確率だと言ってる場合じゃないって。
細胞の中に取り込んで60年後にこんだけハッキリアルファー線が写っちゃうんだから、内部被ばくの影響は相当大きいのはまちがいないよ。残留放射線や放射性降下物、内部被ばくの影響についてきちんと再評価して、原爆症の認定基準についても根本的に見直す必要があるだろう。
へんな政治的配慮で緩めるんじゃなくて、きちんと被ばくの影響を再評価した方がいい。もちろん高齢な被爆者には時間がないので、救済は救済で即刻行うべきなのは当然ですよ。
マクナマラが死んだ ― 2009/07/07

ロバート・マクナマラが死んだ。
ケネディ、ジョンソン両大統領の下で国防長官を務め、ベトナム戦争を主導したロバート・マクナマラ元米国防長官が、7月6日、ワシントンの自宅で亡くなった。93歳。
ハーバード大で経営学を教えた後、自動車メーカー・フォードに入り社長を務めた。第2次世界大戦では兵站を担い東京大空襲の作戦にもかかわった。フォード社の社長を務めていた1961年、ケネディ大統領に請われて国防長官に就任。68年まで務めた。マクナマラ長官の下で米国は愚かなベトナム戦争にのめり込み、当初数百人だったベトナム駐留米兵の数は64年には1万7000人、68年には53万5000にも増加した。62年に旧ソ連のミサイル基地建設に関し米ソが対立したキューバ危機に対応し、統計など経営手法を用いて軍の予算改革などに取り組んだ。
95年に出版した回顧録『ベトナムの悲劇と教訓』では、「ベトナム戦争における決定に参加した米国の幹部たちは…間違った。非常に恐ろしい過ちを犯した」と書いた。国防長官を辞任後、81年まで世界銀行総裁を務めた。
僕にとって、マクナマラと言えば、アメリカの核ドクトリンの基礎を築いた人間、相互確証破壊(MAD)の狂気の均衡を制度化した人間という印象が強い。1960年代という米ソ核軍拡競争が最も激しかった時代に国防長官として核戦略と、核戦力について重要な決定を行なったのである。
柔軟反応戦略…拡大抑止ドクトリンの確立
まず、マクナマラは大量報復戦略のように、通常戦争が直ちに核戦争に移行する戦略は危険と考え、ソ連の通常戦力攻撃にNATOはなるべく通常戦力で対応すべきとした。西欧はコスト面からマクナマラ提案に反対し、アメリカの核の傘に依存する大量報復戦略型の抑止に固執したため、米欧間での激しい議論を起こした。結果的に67年に「柔軟反応戦略」がNATOの公式戦略として採用される。柔軟反応戦略はソ連が西欧に通常戦力で攻撃してきた時は、NATO側は可能なかぎり通常戦力で抵抗し、それでもソ連側を食い止められないと判断された時は、西欧の戦術核兵器の使用に踏み切り、最終的には米本土から戦略核を発射するというもの。「通常戦力による抵抗→戦術核の使用→戦略核の使用」というエスカレーションの対応を平時からソ連に伝えることによって、ソ連の侵略を抑止するわけだ。
西欧諸国の生存とアメリカ対ソ核使用威嚇とをリンクさせるカップリングによる抑止戦略をフランス以外の西欧諸国は受け入れた。ドゴールのフランスはNATO軍事機構から脱退し、独自の核開発の道を選んだ。西欧をソ連から守るためのアメリカの戦略である柔軟反応戦略は「拡大抑止」と呼ばれ、日本など西側同盟国を守る「核の傘」として体系化され現在に至っている。
戦略抑止と相互確証破壊(MAD)の制度化
米ソ二国間の核抑止である「戦略抑止」についてもマクナマラの下で大枠が形成された。マクナマラは、まずソ連の核攻撃からアメリカが被る損害を最小限に抑える方法を模索した。いわゆる「損害限定」政策である。損害限定のために最初に考えられた方法は、有事の際にソ連の核戦力をアメリカの核攻撃で無力化する「カウンターフォース」戦略であった。カウンターフォース戦略は、先制核攻撃能力を追求することと同じで、核軍拡競争をエスカレーションさせ、国防予算の膨張圧力を高めるとして、トーンダウンした。次に検討されたのは「民間防衛計画」である。マクナマラは、核戦争に備えた各種の防衛策や避難訓練等を考えたが、アメリカ市民はプライバシー等の面から抵抗感が強く、実際には難しかった。
1960年代の米軍は、ソ連のミサイルを迎撃する弾道弾迎撃ミサイル(ABM)の開発を進めていたが、マクナマラはこれにより米ソ間の軍拡競争がさらに激化することを懸念して消極的であったといわれている。
結局、マクナマラは核攻撃に対する防御の可能性をすてて米ソが相互に核攻撃に対して脆弱な状態を保つことを前提にして、核攻撃を受けるリスクを避けるために相互に核戦争回避を追求させるという、核抑止体制を理論化した。これが「確証破壊」戦略である。
マクナマラの定義した確証破壊は、ソ連から核攻撃を受けた後に生き残ったアメリカの核戦力でソ連の人口の4分の1~3分の1、産業の3分の2を確実に破壊する能力を持つことを示せば、米ソ間の核戦争は起らない、というものである。核攻撃を受けた後でも相手に耐え難い報復を加える戦力、「生き残り能力のある第2撃力」がアメリカの核戦力規模と構成を決める理念とされ、1960年代後半にICBM、SLBM、戦略爆撃機の3種類の運搬手段と核を保持する戦略が定まったのである。
72年に米ソが調印したSALT1によって、米ソの核戦力が均衡する水準で凍結され、同時に調印されたABM条約によって互いの防御の可能性を捨て去った。米ソが互いに確証破壊能力を持つ「相互確証破壊」(MAD)の核抑止体制が制度的に固められた。こうした互いの命に刃を突き付け合う、膠着した均衡状態の制度化の枠組みを作ったのがマクナマラだったのである。
ニクソン政権下での「エスカレーションコントロール」(シュレンジャー・ドクトリン)も、カーター政権下での、「相殺戦略」も、マクナマラの確証破壊戦略の枠内のものである。レーガン政権は「戦略防衛構想」(SDI)によってMAD型の抑止戦略からの転換をはかったが、研究計画の段階に止まった。冷戦終結後のパパ・ブッシュ政権は冷戦終結というドラスティックな環境変化を受けた目前の課題への対応に追われ、クリント政権によって核戦略の見直しに着手された。これ以降は、まさに現代的課題。ブッシュ政権の「核先制攻撃戦略」、オバマ政権の「核不拡散」への傾斜と究極的核廃絶宣言へとつながっている。
結局、マクナマラの核ドクトリンが40年にわたって世界を支配してきたとも言えるわけです。どんな問題にも答えを見つける傲慢な「人間計算機」、ベトナム戦争の「戦争犯罪人」、すぐに泣く「泣き虫男」…。複雑怪奇な人間だったようだ。もちろん僕は会ったこともないのだけど、一度話を聞いてみたかったな。
合掌。
ケネディ、ジョンソン両大統領の下で国防長官を務め、ベトナム戦争を主導したロバート・マクナマラ元米国防長官が、7月6日、ワシントンの自宅で亡くなった。93歳。
ハーバード大で経営学を教えた後、自動車メーカー・フォードに入り社長を務めた。第2次世界大戦では兵站を担い東京大空襲の作戦にもかかわった。フォード社の社長を務めていた1961年、ケネディ大統領に請われて国防長官に就任。68年まで務めた。マクナマラ長官の下で米国は愚かなベトナム戦争にのめり込み、当初数百人だったベトナム駐留米兵の数は64年には1万7000人、68年には53万5000にも増加した。62年に旧ソ連のミサイル基地建設に関し米ソが対立したキューバ危機に対応し、統計など経営手法を用いて軍の予算改革などに取り組んだ。
95年に出版した回顧録『ベトナムの悲劇と教訓』では、「ベトナム戦争における決定に参加した米国の幹部たちは…間違った。非常に恐ろしい過ちを犯した」と書いた。国防長官を辞任後、81年まで世界銀行総裁を務めた。
僕にとって、マクナマラと言えば、アメリカの核ドクトリンの基礎を築いた人間、相互確証破壊(MAD)の狂気の均衡を制度化した人間という印象が強い。1960年代という米ソ核軍拡競争が最も激しかった時代に国防長官として核戦略と、核戦力について重要な決定を行なったのである。
柔軟反応戦略…拡大抑止ドクトリンの確立
まず、マクナマラは大量報復戦略のように、通常戦争が直ちに核戦争に移行する戦略は危険と考え、ソ連の通常戦力攻撃にNATOはなるべく通常戦力で対応すべきとした。西欧はコスト面からマクナマラ提案に反対し、アメリカの核の傘に依存する大量報復戦略型の抑止に固執したため、米欧間での激しい議論を起こした。結果的に67年に「柔軟反応戦略」がNATOの公式戦略として採用される。柔軟反応戦略はソ連が西欧に通常戦力で攻撃してきた時は、NATO側は可能なかぎり通常戦力で抵抗し、それでもソ連側を食い止められないと判断された時は、西欧の戦術核兵器の使用に踏み切り、最終的には米本土から戦略核を発射するというもの。「通常戦力による抵抗→戦術核の使用→戦略核の使用」というエスカレーションの対応を平時からソ連に伝えることによって、ソ連の侵略を抑止するわけだ。
西欧諸国の生存とアメリカ対ソ核使用威嚇とをリンクさせるカップリングによる抑止戦略をフランス以外の西欧諸国は受け入れた。ドゴールのフランスはNATO軍事機構から脱退し、独自の核開発の道を選んだ。西欧をソ連から守るためのアメリカの戦略である柔軟反応戦略は「拡大抑止」と呼ばれ、日本など西側同盟国を守る「核の傘」として体系化され現在に至っている。
戦略抑止と相互確証破壊(MAD)の制度化
米ソ二国間の核抑止である「戦略抑止」についてもマクナマラの下で大枠が形成された。マクナマラは、まずソ連の核攻撃からアメリカが被る損害を最小限に抑える方法を模索した。いわゆる「損害限定」政策である。損害限定のために最初に考えられた方法は、有事の際にソ連の核戦力をアメリカの核攻撃で無力化する「カウンターフォース」戦略であった。カウンターフォース戦略は、先制核攻撃能力を追求することと同じで、核軍拡競争をエスカレーションさせ、国防予算の膨張圧力を高めるとして、トーンダウンした。次に検討されたのは「民間防衛計画」である。マクナマラは、核戦争に備えた各種の防衛策や避難訓練等を考えたが、アメリカ市民はプライバシー等の面から抵抗感が強く、実際には難しかった。
1960年代の米軍は、ソ連のミサイルを迎撃する弾道弾迎撃ミサイル(ABM)の開発を進めていたが、マクナマラはこれにより米ソ間の軍拡競争がさらに激化することを懸念して消極的であったといわれている。
結局、マクナマラは核攻撃に対する防御の可能性をすてて米ソが相互に核攻撃に対して脆弱な状態を保つことを前提にして、核攻撃を受けるリスクを避けるために相互に核戦争回避を追求させるという、核抑止体制を理論化した。これが「確証破壊」戦略である。
マクナマラの定義した確証破壊は、ソ連から核攻撃を受けた後に生き残ったアメリカの核戦力でソ連の人口の4分の1~3分の1、産業の3分の2を確実に破壊する能力を持つことを示せば、米ソ間の核戦争は起らない、というものである。核攻撃を受けた後でも相手に耐え難い報復を加える戦力、「生き残り能力のある第2撃力」がアメリカの核戦力規模と構成を決める理念とされ、1960年代後半にICBM、SLBM、戦略爆撃機の3種類の運搬手段と核を保持する戦略が定まったのである。
72年に米ソが調印したSALT1によって、米ソの核戦力が均衡する水準で凍結され、同時に調印されたABM条約によって互いの防御の可能性を捨て去った。米ソが互いに確証破壊能力を持つ「相互確証破壊」(MAD)の核抑止体制が制度的に固められた。こうした互いの命に刃を突き付け合う、膠着した均衡状態の制度化の枠組みを作ったのがマクナマラだったのである。
ニクソン政権下での「エスカレーションコントロール」(シュレンジャー・ドクトリン)も、カーター政権下での、「相殺戦略」も、マクナマラの確証破壊戦略の枠内のものである。レーガン政権は「戦略防衛構想」(SDI)によってMAD型の抑止戦略からの転換をはかったが、研究計画の段階に止まった。冷戦終結後のパパ・ブッシュ政権は冷戦終結というドラスティックな環境変化を受けた目前の課題への対応に追われ、クリント政権によって核戦略の見直しに着手された。これ以降は、まさに現代的課題。ブッシュ政権の「核先制攻撃戦略」、オバマ政権の「核不拡散」への傾斜と究極的核廃絶宣言へとつながっている。
結局、マクナマラの核ドクトリンが40年にわたって世界を支配してきたとも言えるわけです。どんな問題にも答えを見つける傲慢な「人間計算機」、ベトナム戦争の「戦争犯罪人」、すぐに泣く「泣き虫男」…。複雑怪奇な人間だったようだ。もちろん僕は会ったこともないのだけど、一度話を聞いてみたかったな。
合掌。
森瀧市郎:「核絶対否定」を貫いた哲学者 ― 2009/05/09

自分が影響された人といえば、最初にあげなくてはならないのはやはり森瀧市郎先生でしょうか。
森瀧先生は日本の平和運動における第一人者であり、核実験や戦争に抗議して平和公園で座り込むその姿は、被爆都市ヒロシマの象徴と言われました。被爆によって右目を失いながら、遠く核のない未来を見つめ、反核・平和、ヒバクシャ運動に力を尽くされたその人生が、原水禁運動の歩みそのものであることを否定する人はいないでしょう。
僕が東京の原水禁国民会議の事務局で働きはじめた1987年頃は、森瀧先生はすでに80代後半のご高齢だったうえ広島にお住まいでしたらから、生の森瀧先生と接した機会はそれほど多くはありません。たまにお会いしても、相手は原水禁運動の象徴的指導者、こちらはぺーぺーのバイト学生ですから気軽に話しかけるわけにもいかず、「あ、生森瀧だ!」と思いながらドキドキしていたのが関の山でした。本当はもっと根掘り葉掘り聞きたいこともたくさんあったのだけど、なかなかそこまではできなかった。それでも末席で同席させてもらったり、ご一緒させていただくときもあって、そのオーラに圧倒されたものです。
最初はみんな持ち上げるけどただのじいさんじゃないの?と思っていたけど、そのうち下手なこと言ったら「ダマラッシャイ」と杖で一喝されそうな気難しい老学者先生に見えてきたりして、結局、そのどちらも森瀧先生だったのですね。「核」につながるものに徹底して厳しく、人間として共に生きようとするすべての人に優しく、時には頑固な老哲学者であり、いつもは普通のおじいさん。ただただ核と闘い抜いたその信念と生き様が、多くの人々に影響を与えてきたのです。
おかげで僕も反核・平和をライフワークとしてやっています。かなり頼りないですが、頑張っていくつもりですから、どうか見守ってください。たまたまNHKの番組で森瀧先生の特集をしていたので、森瀧先生のことを思い出した次第です。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
森瀧市郎先生(略歴)
原水爆禁止日本国民会議議長、広島大学名誉教授
1901年 4月 広島県双三郡君田村に生まれる
1925年 3月 広島高等師範卒業
1925年 4月 広島県立三次中学校教諭に就任
1927年 4月 京都帝国大学文学部哲学科入学
1930年 3月 京都帝国大学文学部哲学科卒業
1930年 4月 京都帝国大学大学院。兼京都高等蚕糸学校(現京都工芸繊維大学)講師。
1931年 3月 京都大学大学院卒業、同年、広島高等師範教授
1931年12月 西しげと結婚、広島市白島中町に住む
1932年 6月 慢性肋膜炎のため入院(10月まで)
1943年 8月 広島市翠町に転居
1945年 8月 広島市江波町の三菱重工江波造船所の動員学徒の教官室で原爆に被爆。ガラスの破片で右目を失う
1946年 9月 被爆した目の治療のため入院
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入院生活中に「力の文明」を否定して、宗教道徳が主座につく精神文明が復位すべきだとする「慈の文化」に思い至る。
…………………………………………………………………………………………
1946年 3月 高師に単身帰任
1950年 2月 広島文理大学文学部教授に就任
1950年11月 博士学位論文「英国倫理研究」
1951年 9月 広島大学平和問題研究会発会。世話人の一人となる
1952年 8月 広島市霞町に転居
1952年12月 学位論文が文理大学教授会を通過
1953年 4月 広島大学文学部教授(文理大廃止)。
1953年 2月 広島こどもを守る会会長となる。原爆孤児の救済運動(精神養子運動)を始める。平和と学問も守る大学人の会に参加
1954年 4月 佐伯郡五日市町海老園に転居
1954年 5月 原水爆禁止広島市民大会を開催
1954年 5月 原水爆禁止を求める「百万署名」の街頭署名運動をはじめる。
1954年 7月 原水爆禁止広島県運動本部を結成、事務局長となる
1954年 8月 原水爆禁止広島平和大会で一般経過報告
1954年 9月 県民運動本部を発展的に解消し、原水爆禁止運動広島協議会」(広島原水協)を結成し事務局長となる(後に代表委員)。
1954年10月 第一回原水爆禁止世界大会の開催を原水爆禁止署名運動全国協議会の総会に提案
1955年 8月 第一回原水爆禁止世界大会が広島で開催、現地事務局長を務める
1955年 9月 原水爆禁止日本協議会(日本原水協)発足、やがてその常任理事・代表委員の一人となる
1956年 3月 最初の原爆被害者大会の開催に尽力
1956年 5月 広島県原爆被害者団体協議会を結成し理事長となる
1956年 8月 日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)発足、代表委員の一人となる
1957年 3月 イギリス・クリスマス島の水爆実験計画に抗議して慰霊碑前に座り込む
1957年 4月 原水爆実験阻止広島市民大会
1957年 8月 原水爆禁止国民平和使節として、英、独、仏、オーストリアを訪問
1957年 8月 英・北ウエールズの山荘でバートランド・ラッセル博士と会見
1957年 8月 西ドイツの核武装に反対する「ゲンチンゲン宣言」の学者と会見
1957年 9月 第三回パグオッシュ会議を実現したオーストリア大統領シェルフ博士と会見
1958年 5月 原爆の子の像除幕。募金活動に奔走
1958年 6月 広島~東京一千キロ国民平和大行進の成功に尽力
1958年 7月 中国新聞に、後年有名となる「人類は生きねばならぬ」という命題をのべた一文を発表
1960年 8月 日本被団協総会が代表委員制を改め理事長となる。被爆者援護法制定要求運動への本格的な取り組みを開始
1962年 4月 アメリカとソビエトの核実験に抗議し(大学に辞表を提出し)て17日間慰霊碑の前に座り込む(後に核実験の都度の座込みの発端)
…………………………………………………………………………………………
このとき「精神的原子の連鎖反応が 物質的原子の連鎖反応にかたねばならぬ。
…………………………………………………………………………………………
1962年 6月 ガーナの首都アクラで開催された「原爆のない世界のためのアクラ会議にエンクルマ大統領に招待され、ガーナ、ガボンのランバレネ、ギリシャを訪問
1962年 6月 赤道直下のランバレネの病院でシュバイツアー博士と会県
1963年 8月 第九回原水爆禁止世界大会で「いかなる国の核実験にも反対」というスローガンと部分的核実験禁止条約の賛否をめぐって日本原水協分裂
1963年12月 東京地裁で「原爆裁判」の判決
1964年 3月 原水爆禁止三県連絡会議(後に原水禁に発展)
1964年 4月 全地婦連、日青協、日本原水協を脱退
1964年 6月 広島県原水爆禁止協議会分裂。共産党系理事脱退
1964年 6月 佐久間澄広島大教授(原水協)、村上忠敬広島大教授(核禁会議)らとともに「談話会」をつくり、被爆20周年を翌年に控えて、政府に「原爆被害白書」をつくらせる運動を開始
1964年 6月 日本原水協理事会によって「代表委員より除外」される。
1964年 8月 「社会新報」に「被爆地の願い――社会党・総評の皆さんに訴える」を公表。「いかなる」問題に言及
…………………………………………………………………………………………
三被爆地から訴えた運動の正常化はただに国民的統一のみならず人類的国際的統一の芽さえもつところのものであって、系列化固定化は絶対望むところではない。真に被爆地から被爆者の心に立って起こる運動であれば、いずれの側のものでもなければ、いずれの国につくものでもなく、生きんとする人類すべてをつなぐ運動たりうるのである。
…………………………………………………………………………………………
1964年10月 国際協力と軍縮のためのオーストラリア会議に出席するためオーストラリアを訪問。アボリジニに対する人種差別と「核の被害」に注目
1965年 1月 肺炎にかかり2月迄、絶対安静。
…………………………………………………………………………………………
被爆20周年の決意をこめて、後に有名となる「人類は生きねばならぬ」の書き初めをする
…………………………………………………………………………………………
1965年 2月 原水爆禁止日本国民会議(原水禁)が発足、代表委員に就任(事務局長は伊藤満氏)。原水爆禁止広島県協議会代表委員となる
1965年 2月 広島大学での最終講義「平和倫理の研究と実践」
1965年 3月 広島大学新聞に「被爆20周年を期し学園関係原爆犠牲者慰霊碑を建設せよ」と提案(73年に慰霊碑建立)
1965年 3月 広島大学定年退官、広島大学名誉教授となる
1965年 4月 ソ連平和委員会の招待により被爆者平和使節団団長としてソ連を訪問
1966年 6月 日本被団協理事長に初の決戦投票(相手は日本原水協代表理事)により選出。日本被団協分裂を回避し統一を保持した
1966年11月 原水爆禁止運動三団体の賛意をうけて原爆ドーム保存の募金運動に奔走
1967年 3月 原爆被爆者特別措置に関する法律の提案にともなう日本被団協の国会請願行動の先頭に。被爆者援護法の制定を求める運動は大きく盛り上がったが、5月に成立した法律は、被爆者の要求とはほど遠いものに
1969年 7月 第61国会で参議院の社会労働委員会参考人として「国家補償としての被爆者援護法の制定」を要求(自民党は当初国家補償を含めると約束したと追求。国は被爆者対策は「社会保障」の枠内に固執
1969年 8月 原水禁世界大会・沖縄国際会議のため、はじめて沖縄を訪問
1970年 8月 日本被団協総会。自らの提案による規約改正(集団指導体制への移行)に伴い理事長を辞任
1970年11月 ヒロシマ会議(現代における平和の条件)に出席
1971年 4月 反核を訴えるため、世界一周旅行に出発。アメリカ、イギリス、西ドイツ、フランス、スウェーデン、ソ連、ユーゴスラビアを訪問。アメリカではライナス・ポーリング博士と会見。ベトナム反戦ワシントン大集会で演説
1971年11月 岩国基地撤去大集会でデモの先頭にたつ
1973年 1月 密航韓国人被爆者の広島赤十字病院入院に尽力して実現。同被爆者は後に裁判で被爆者手帳も取得
1973年 7月 フランスの核実験抗議のため座込み。以来、核実験の度毎に慰霊碑の前に座り込む
1973年 7月 桑原裁判を支援する会を結成(「認定」裁判)。
1973年 8月 広島県民集会で決意表明
…………………………………………………………………………………………
若き後継の人たちも育ち、いつ倒れてもよいと思う。命ある限りたたかう。
…………………………………………………………………………………………
1974年 5月 被爆者援護法案の廃案に抗議声明を出す。被爆証人探しをはじめる
1974年 5月 フランス核実験抗議のため、フランス、イギリス、イタリアを訪問
1974年 6月 モルロア核実験に反対している「爆弾に反対するフランス人連合」会長ボラディエール将軍をブルタニューに訪問
1974年 7月 核兵器完全禁止をめざし団結をよびかける広島の学者・文化人(12人)のアピールに名を連ねる
1974年 8月 朝日新聞の「広島と世界の往復書簡」でノエル・ベーカー博士と対話。「慈の文化」を語る
1974年 9月 焼津市で開催された原水協・原水禁両団体関係者の統一的な集会に列席
1975年 4月 非核太平洋会議出席のためフィジー訪問
1975年 4月 被爆者の特別措置法改正案を審議中の衆議院社会労働委員会で参考人として意見陳述。「国家補償の援護法」を要求(社公民共四党が保革伯仲の参議院に援護法案を提出。同法は7月に廃案
1975年 5月 アメリカの核実験に抗議してリフトン教授等と慰霊碑前に座り込む
1975年 6月 原水禁運動の統一をめざす七者懇談会(8月1日に流会)
1975年 8月 被爆30周年原水禁世界大会・広島大会で「核絶対否定」の理念をのべる
…………………………………………………………………………………………
核分裂エネルギーにたより続けたら、この地球全体がプルトニウムや放射性廃棄物の故に、人類の生存をあやうくされるのであります。私たちは今日まで核の軍事利用を絶対に否定してきましたが、いまや核の平和利用とよばれる核分裂エネルギーの利用をも否定しなければならぬ核時代に突入したのであります。しょせん、核は軍事利用であれ平和利用であれ、地球上の人間の生存を否定するものである、と断ぜざるをえないのであります。結局、核と人類は共存できないのであります。
……………………………………………………………………………………………
1976年 8月 被爆31周年原水爆禁止世界大会の基調演説で「核絶対否定の理念」を強調、核兵器も原発もない「核のない未来」の実現を訴える
1976年10月 福井県敦賀で原発反対全国活動者会議で主催者代表あいさつ
1977年 4月 2つの広島県被団協が分裂後はじめての統一集会。よびかけ人を代表して挨拶
1977年 5月 岩波書店会議室で日本原水協の草野信男理事長と「5・19合意」に署名。吉野源三郎氏ら7人が立ち合う。
1977年 8月 14年ぶりに開催された統一世界大会に出席、議長団を代表して挨拶
1978年 5月 「第1回国連軍縮特別総会」に参加するためニューヨークを訪問
1979年 3月 「ビキニ被災25周年ビキニデー広島集会」で主催者代表として挨拶
1980年 5月 「非核独立太平洋会議」に出席するためハワイを訪問。「非核太平洋人民憲章」を提案
1980年10月 「援護法制定促進広島県民集会」宮沢知事に要請
1980年12月 「原爆被爆者対策基本問題懇談会」の報告に対する抗議の県民集会で主催者として決意表明
1981年11月 「ヒロシマ語り部」としてドルムント平和集会に参加するため西ドイツを訪問。反核大集会で演説
1982年 3月 「82年・平和のためのヒロシマ行動」で演説
1982年 6月 第2回国連軍縮特別総会に参加のためニューヨークを訪問
1985年 5月 原爆白内障治療のため広島県病院に入院
1985年 6月 被爆者代表として中国を訪問。
1985年 7月 ソ連核実験に抗議して座込み(300回)
1985年 8月 「国際被爆者フォーラム」実行委員長。マーシャル、オランダ、イギリス、カナダ、マレーシアなどのヒバクシャが参加
1985年 8月 沖縄の国際連帯会議に参加
1986年 4月 85才の誕生日の翌日、仏核実験抗議の座込みの日にチェルノブイリ事故の報道に接する
1986年 8月 統一世界大会開催不可能に
1987年 9月 第1回核被害者世界大会に出席するためニューヨーク訪問
1988年 8月 「森瀧先生の米寿を祝い励ます会」開催
1989年 4月 青森県六ヶ所村で開催された「反核燃全国集会」を呼びかけ。核燃基地を包囲する「人間の鎖」の先頭にたつ
1990年 3月 原爆慰霊碑前での核実験座込みが500回に
1990年 9月 肋骨カリエスのため入院。肋骨一部切除、冷膿瘍摘出手術
1991年 4月 谷本清平和賞受賞。満90才、卒寿を迎える
1993年 7月 広島県被団協5年度総会に出席
1993年 7月 核実験抗議慰霊碑前座込み20周年記念に出席
1993年 8月 被爆48周年原水爆禁止世界大会開会総会で主催者あいさつ
1993年 8月 原爆死没者追悼慰霊式典で追悼の辞
1993年 8月 日赤原爆病院に入院
1993年11月 平和公園を散歩
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1994年1月25日、森滝市郎原水禁国民会議議長が92歳で死去
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『著書』に、『反核30年』(日本評論社刊)、『ヒロシマ40年―森瀧日記の証言』(中国新聞社刊)。共著に『非核未来に向けて』(績文堂)、『いのちとうとし』(広島県原水禁刊)など。
森瀧先生は日本の平和運動における第一人者であり、核実験や戦争に抗議して平和公園で座り込むその姿は、被爆都市ヒロシマの象徴と言われました。被爆によって右目を失いながら、遠く核のない未来を見つめ、反核・平和、ヒバクシャ運動に力を尽くされたその人生が、原水禁運動の歩みそのものであることを否定する人はいないでしょう。
僕が東京の原水禁国民会議の事務局で働きはじめた1987年頃は、森瀧先生はすでに80代後半のご高齢だったうえ広島にお住まいでしたらから、生の森瀧先生と接した機会はそれほど多くはありません。たまにお会いしても、相手は原水禁運動の象徴的指導者、こちらはぺーぺーのバイト学生ですから気軽に話しかけるわけにもいかず、「あ、生森瀧だ!」と思いながらドキドキしていたのが関の山でした。本当はもっと根掘り葉掘り聞きたいこともたくさんあったのだけど、なかなかそこまではできなかった。それでも末席で同席させてもらったり、ご一緒させていただくときもあって、そのオーラに圧倒されたものです。
最初はみんな持ち上げるけどただのじいさんじゃないの?と思っていたけど、そのうち下手なこと言ったら「ダマラッシャイ」と杖で一喝されそうな気難しい老学者先生に見えてきたりして、結局、そのどちらも森瀧先生だったのですね。「核」につながるものに徹底して厳しく、人間として共に生きようとするすべての人に優しく、時には頑固な老哲学者であり、いつもは普通のおじいさん。ただただ核と闘い抜いたその信念と生き様が、多くの人々に影響を与えてきたのです。
おかげで僕も反核・平和をライフワークとしてやっています。かなり頼りないですが、頑張っていくつもりですから、どうか見守ってください。たまたまNHKの番組で森瀧先生の特集をしていたので、森瀧先生のことを思い出した次第です。
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森瀧市郎先生(略歴)
原水爆禁止日本国民会議議長、広島大学名誉教授
1901年 4月 広島県双三郡君田村に生まれる
1925年 3月 広島高等師範卒業
1925年 4月 広島県立三次中学校教諭に就任
1927年 4月 京都帝国大学文学部哲学科入学
1930年 3月 京都帝国大学文学部哲学科卒業
1930年 4月 京都帝国大学大学院。兼京都高等蚕糸学校(現京都工芸繊維大学)講師。
1931年 3月 京都大学大学院卒業、同年、広島高等師範教授
1931年12月 西しげと結婚、広島市白島中町に住む
1932年 6月 慢性肋膜炎のため入院(10月まで)
1943年 8月 広島市翠町に転居
1945年 8月 広島市江波町の三菱重工江波造船所の動員学徒の教官室で原爆に被爆。ガラスの破片で右目を失う
1946年 9月 被爆した目の治療のため入院
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入院生活中に「力の文明」を否定して、宗教道徳が主座につく精神文明が復位すべきだとする「慈の文化」に思い至る。
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1946年 3月 高師に単身帰任
1950年 2月 広島文理大学文学部教授に就任
1950年11月 博士学位論文「英国倫理研究」
1951年 9月 広島大学平和問題研究会発会。世話人の一人となる
1952年 8月 広島市霞町に転居
1952年12月 学位論文が文理大学教授会を通過
1953年 4月 広島大学文学部教授(文理大廃止)。
1953年 2月 広島こどもを守る会会長となる。原爆孤児の救済運動(精神養子運動)を始める。平和と学問も守る大学人の会に参加
1954年 4月 佐伯郡五日市町海老園に転居
1954年 5月 原水爆禁止広島市民大会を開催
1954年 5月 原水爆禁止を求める「百万署名」の街頭署名運動をはじめる。
1954年 7月 原水爆禁止広島県運動本部を結成、事務局長となる
1954年 8月 原水爆禁止広島平和大会で一般経過報告
1954年 9月 県民運動本部を発展的に解消し、原水爆禁止運動広島協議会」(広島原水協)を結成し事務局長となる(後に代表委員)。
1954年10月 第一回原水爆禁止世界大会の開催を原水爆禁止署名運動全国協議会の総会に提案
1955年 8月 第一回原水爆禁止世界大会が広島で開催、現地事務局長を務める
1955年 9月 原水爆禁止日本協議会(日本原水協)発足、やがてその常任理事・代表委員の一人となる
1956年 3月 最初の原爆被害者大会の開催に尽力
1956年 5月 広島県原爆被害者団体協議会を結成し理事長となる
1956年 8月 日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)発足、代表委員の一人となる
1957年 3月 イギリス・クリスマス島の水爆実験計画に抗議して慰霊碑前に座り込む
1957年 4月 原水爆実験阻止広島市民大会
1957年 8月 原水爆禁止国民平和使節として、英、独、仏、オーストリアを訪問
1957年 8月 英・北ウエールズの山荘でバートランド・ラッセル博士と会見
1957年 8月 西ドイツの核武装に反対する「ゲンチンゲン宣言」の学者と会見
1957年 9月 第三回パグオッシュ会議を実現したオーストリア大統領シェルフ博士と会見
1958年 5月 原爆の子の像除幕。募金活動に奔走
1958年 6月 広島~東京一千キロ国民平和大行進の成功に尽力
1958年 7月 中国新聞に、後年有名となる「人類は生きねばならぬ」という命題をのべた一文を発表
1960年 8月 日本被団協総会が代表委員制を改め理事長となる。被爆者援護法制定要求運動への本格的な取り組みを開始
1962年 4月 アメリカとソビエトの核実験に抗議し(大学に辞表を提出し)て17日間慰霊碑の前に座り込む(後に核実験の都度の座込みの発端)
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このとき「精神的原子の連鎖反応が 物質的原子の連鎖反応にかたねばならぬ。
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1962年 6月 ガーナの首都アクラで開催された「原爆のない世界のためのアクラ会議にエンクルマ大統領に招待され、ガーナ、ガボンのランバレネ、ギリシャを訪問
1962年 6月 赤道直下のランバレネの病院でシュバイツアー博士と会県
1963年 8月 第九回原水爆禁止世界大会で「いかなる国の核実験にも反対」というスローガンと部分的核実験禁止条約の賛否をめぐって日本原水協分裂
1963年12月 東京地裁で「原爆裁判」の判決
1964年 3月 原水爆禁止三県連絡会議(後に原水禁に発展)
1964年 4月 全地婦連、日青協、日本原水協を脱退
1964年 6月 広島県原水爆禁止協議会分裂。共産党系理事脱退
1964年 6月 佐久間澄広島大教授(原水協)、村上忠敬広島大教授(核禁会議)らとともに「談話会」をつくり、被爆20周年を翌年に控えて、政府に「原爆被害白書」をつくらせる運動を開始
1964年 6月 日本原水協理事会によって「代表委員より除外」される。
1964年 8月 「社会新報」に「被爆地の願い――社会党・総評の皆さんに訴える」を公表。「いかなる」問題に言及
…………………………………………………………………………………………
三被爆地から訴えた運動の正常化はただに国民的統一のみならず人類的国際的統一の芽さえもつところのものであって、系列化固定化は絶対望むところではない。真に被爆地から被爆者の心に立って起こる運動であれば、いずれの側のものでもなければ、いずれの国につくものでもなく、生きんとする人類すべてをつなぐ運動たりうるのである。
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1964年10月 国際協力と軍縮のためのオーストラリア会議に出席するためオーストラリアを訪問。アボリジニに対する人種差別と「核の被害」に注目
1965年 1月 肺炎にかかり2月迄、絶対安静。
…………………………………………………………………………………………
被爆20周年の決意をこめて、後に有名となる「人類は生きねばならぬ」の書き初めをする
…………………………………………………………………………………………
1965年 2月 原水爆禁止日本国民会議(原水禁)が発足、代表委員に就任(事務局長は伊藤満氏)。原水爆禁止広島県協議会代表委員となる
1965年 2月 広島大学での最終講義「平和倫理の研究と実践」
1965年 3月 広島大学新聞に「被爆20周年を期し学園関係原爆犠牲者慰霊碑を建設せよ」と提案(73年に慰霊碑建立)
1965年 3月 広島大学定年退官、広島大学名誉教授となる
1965年 4月 ソ連平和委員会の招待により被爆者平和使節団団長としてソ連を訪問
1966年 6月 日本被団協理事長に初の決戦投票(相手は日本原水協代表理事)により選出。日本被団協分裂を回避し統一を保持した
1966年11月 原水爆禁止運動三団体の賛意をうけて原爆ドーム保存の募金運動に奔走
1967年 3月 原爆被爆者特別措置に関する法律の提案にともなう日本被団協の国会請願行動の先頭に。被爆者援護法の制定を求める運動は大きく盛り上がったが、5月に成立した法律は、被爆者の要求とはほど遠いものに
1969年 7月 第61国会で参議院の社会労働委員会参考人として「国家補償としての被爆者援護法の制定」を要求(自民党は当初国家補償を含めると約束したと追求。国は被爆者対策は「社会保障」の枠内に固執
1969年 8月 原水禁世界大会・沖縄国際会議のため、はじめて沖縄を訪問
1970年 8月 日本被団協総会。自らの提案による規約改正(集団指導体制への移行)に伴い理事長を辞任
1970年11月 ヒロシマ会議(現代における平和の条件)に出席
1971年 4月 反核を訴えるため、世界一周旅行に出発。アメリカ、イギリス、西ドイツ、フランス、スウェーデン、ソ連、ユーゴスラビアを訪問。アメリカではライナス・ポーリング博士と会見。ベトナム反戦ワシントン大集会で演説
1971年11月 岩国基地撤去大集会でデモの先頭にたつ
1973年 1月 密航韓国人被爆者の広島赤十字病院入院に尽力して実現。同被爆者は後に裁判で被爆者手帳も取得
1973年 7月 フランスの核実験抗議のため座込み。以来、核実験の度毎に慰霊碑の前に座り込む
1973年 7月 桑原裁判を支援する会を結成(「認定」裁判)。
1973年 8月 広島県民集会で決意表明
…………………………………………………………………………………………
若き後継の人たちも育ち、いつ倒れてもよいと思う。命ある限りたたかう。
…………………………………………………………………………………………
1974年 5月 被爆者援護法案の廃案に抗議声明を出す。被爆証人探しをはじめる
1974年 5月 フランス核実験抗議のため、フランス、イギリス、イタリアを訪問
1974年 6月 モルロア核実験に反対している「爆弾に反対するフランス人連合」会長ボラディエール将軍をブルタニューに訪問
1974年 7月 核兵器完全禁止をめざし団結をよびかける広島の学者・文化人(12人)のアピールに名を連ねる
1974年 8月 朝日新聞の「広島と世界の往復書簡」でノエル・ベーカー博士と対話。「慈の文化」を語る
1974年 9月 焼津市で開催された原水協・原水禁両団体関係者の統一的な集会に列席
1975年 4月 非核太平洋会議出席のためフィジー訪問
1975年 4月 被爆者の特別措置法改正案を審議中の衆議院社会労働委員会で参考人として意見陳述。「国家補償の援護法」を要求(社公民共四党が保革伯仲の参議院に援護法案を提出。同法は7月に廃案
1975年 5月 アメリカの核実験に抗議してリフトン教授等と慰霊碑前に座り込む
1975年 6月 原水禁運動の統一をめざす七者懇談会(8月1日に流会)
1975年 8月 被爆30周年原水禁世界大会・広島大会で「核絶対否定」の理念をのべる
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核分裂エネルギーにたより続けたら、この地球全体がプルトニウムや放射性廃棄物の故に、人類の生存をあやうくされるのであります。私たちは今日まで核の軍事利用を絶対に否定してきましたが、いまや核の平和利用とよばれる核分裂エネルギーの利用をも否定しなければならぬ核時代に突入したのであります。しょせん、核は軍事利用であれ平和利用であれ、地球上の人間の生存を否定するものである、と断ぜざるをえないのであります。結局、核と人類は共存できないのであります。
……………………………………………………………………………………………
1976年 8月 被爆31周年原水爆禁止世界大会の基調演説で「核絶対否定の理念」を強調、核兵器も原発もない「核のない未来」の実現を訴える
1976年10月 福井県敦賀で原発反対全国活動者会議で主催者代表あいさつ
1977年 4月 2つの広島県被団協が分裂後はじめての統一集会。よびかけ人を代表して挨拶
1977年 5月 岩波書店会議室で日本原水協の草野信男理事長と「5・19合意」に署名。吉野源三郎氏ら7人が立ち合う。
1977年 8月 14年ぶりに開催された統一世界大会に出席、議長団を代表して挨拶
1978年 5月 「第1回国連軍縮特別総会」に参加するためニューヨークを訪問
1979年 3月 「ビキニ被災25周年ビキニデー広島集会」で主催者代表として挨拶
1980年 5月 「非核独立太平洋会議」に出席するためハワイを訪問。「非核太平洋人民憲章」を提案
1980年10月 「援護法制定促進広島県民集会」宮沢知事に要請
1980年12月 「原爆被爆者対策基本問題懇談会」の報告に対する抗議の県民集会で主催者として決意表明
1981年11月 「ヒロシマ語り部」としてドルムント平和集会に参加するため西ドイツを訪問。反核大集会で演説
1982年 3月 「82年・平和のためのヒロシマ行動」で演説
1982年 6月 第2回国連軍縮特別総会に参加のためニューヨークを訪問
1985年 5月 原爆白内障治療のため広島県病院に入院
1985年 6月 被爆者代表として中国を訪問。
1985年 7月 ソ連核実験に抗議して座込み(300回)
1985年 8月 「国際被爆者フォーラム」実行委員長。マーシャル、オランダ、イギリス、カナダ、マレーシアなどのヒバクシャが参加
1985年 8月 沖縄の国際連帯会議に参加
1986年 4月 85才の誕生日の翌日、仏核実験抗議の座込みの日にチェルノブイリ事故の報道に接する
1986年 8月 統一世界大会開催不可能に
1987年 9月 第1回核被害者世界大会に出席するためニューヨーク訪問
1988年 8月 「森瀧先生の米寿を祝い励ます会」開催
1989年 4月 青森県六ヶ所村で開催された「反核燃全国集会」を呼びかけ。核燃基地を包囲する「人間の鎖」の先頭にたつ
1990年 3月 原爆慰霊碑前での核実験座込みが500回に
1990年 9月 肋骨カリエスのため入院。肋骨一部切除、冷膿瘍摘出手術
1991年 4月 谷本清平和賞受賞。満90才、卒寿を迎える
1993年 7月 広島県被団協5年度総会に出席
1993年 7月 核実験抗議慰霊碑前座込み20周年記念に出席
1993年 8月 被爆48周年原水爆禁止世界大会開会総会で主催者あいさつ
1993年 8月 原爆死没者追悼慰霊式典で追悼の辞
1993年 8月 日赤原爆病院に入院
1993年11月 平和公園を散歩
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1994年1月25日、森滝市郎原水禁国民会議議長が92歳で死去
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『著書』に、『反核30年』(日本評論社刊)、『ヒロシマ40年―森瀧日記の証言』(中国新聞社刊)。共著に『非核未来に向けて』(績文堂)、『いのちとうとし』(広島県原水禁刊)など。
原水禁顧問 前野良先生逝く ― 2007/05/18

野崎哲(元原水禁国民会議事務局)
原水禁国民会議顧問の前野良先生が、07年5月18日午前、肺炎で亡くなられました。94歳というご高齢でしたから、こういう日が来ることは覚悟をしていましたが、いざ現実になるとそのあまりに大きい空白に愕然とします。
前野先生は、一兵士として動員され、広島湾の軍艦上で被ばくされました。さらに、その後の1ヵ月あまりの救護活動によっても被ばくされ、ヒロシマの地獄を見た生証人です。
戦後は、長野大学、法政大学、東京経済大学などで教鞭をとる一方で、反核平和運動の先頭に立ち続けました。1955年の最初の世界大会から原水禁運動に参加。その後、ソ連の核実験を擁護する共産党系の原水協主流派に対抗して「いかなる核にも反対する」立場から論陣を張り、原水禁の創設に尽くされました。
前野先生は、いかなる国の核も、軍事利用と平和利用も一切の「核」を区別せずに否定する原水禁の思想を理論化する上で中心的な役割を果たされ、原水禁常任執行委員、代表委員として活躍されました。反原発や韓国民主化運動等の様々な活動に加わり、幅広い活動家から信頼を集めました。政治学者としては、スターリニズムに批判的な立場から社会主義の政治経済の分析にあたり、グラムシや労働者自主管理運動の研究で知られました。
私がはじめてお会いした87年頃は、すでに「雲の上」の大学者でしたが、まったく偉ぶらず、若造が挑む無謀な論争も軽んじることなく厳しく反撃されたものでした。時に本気で、時に諭すように。演説後の少年ような純粋な笑顔が今も目に浮かびます。
核について一切の妥協を許さず、組織の都合や実務を理由にした言い訳を厳しく叱咤されたものですが、同時に相当な無理なお願いにも応えていただきました。
前野先生。実は、私たちは先生にこっそりあだ名をつけていたのです。「前野不良先生」と。反核運動の為であれば、時に講義を休み、時に論文を後回しにして活動される様を、われわれ不肖の生徒たちが前野さんは「不良」教師だな、と深い敬愛の念とささやかな反抗心を込めて呼んでいたのです。前野先生は大学の教員であるというだけでなく、私にとって本当の意味で反核運動の先生でした。
長い間、ありがとうございました。残念ながら「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」といえる状況ではありませんが、後は残された私たちががんばります。さぞかし心配でしょうが、どうぞ暖かく見守ってください。
(※原水禁ニュース2007年7月号掲載の文章に加筆)
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