田辺誠元社会党委員長死去2015/07/02

田辺誠さんが亡くなった。
7月3日の朝に立憲ネットの会合で会った角倉群馬県議から聞いて、えーっと思ってたら夕刊で一斉に報道されていた。
1991年に土井たか子委員長の後をついで、社会党委員長となり93年まで努めた。僕が社会党書記局に入局した93年4月は、山花委員長・赤松書記長体制に変わった直後で、96年には政界を引退されているので、ほとんど具体的な付き合いはなかったけど、金丸信さんなど自民党幹部とも親しい国対族で、右派のリーダーというイメージだったから、なんとなく悪い印象を持っていた。
若い頃は、安保や自衛隊に少しでも強く反対するやつが偉いんだと、なんとなく思っていたからしょうがなかったんだけど、自分も年をとって政治家の評価に関しても一つの基準でははかれなくて、いろんな座標軸が重なり合っているんだよなあと思えるようになってきて、だいぶ印象も変わっていました。いい方向に。
誠実な人柄や真面目な政治姿勢とリアルタイムに評価できなかったのは残念だったなあ、と思っています。
安らかにお休み下さい。合掌。

見津毅さん没後20年で集会2015/06/07

6月7日夕、渋谷勤労福祉会館で、「ミツの魂100まで――見津くんとのお別れから20年の集い」が催された。「ミツ」とは1995年に、バイクの事故で夭折した見津毅さんのことだ。見津さんは早稲田大学在学中から際だった活動家で、国家秘密法反対運動、反天皇制運動、外国人労働者問題、野宿者支援、阪神大震災救援、戦後補償問題など様々な運動に係わり、多くの人びとに影響を与え、愛された若手のリーダーだ。なくなったときは社会新報記者だった。
ミツの魂100まで
見津さんの係わった多くの社会運動の中で、最も代表的なのは<秋の嵐>と言ってよいだろう。反天皇制全国個人共闘<秋の嵐>(当初は「緊急臨時共闘」と名乗った)は1987年の天皇法沖阻止闘争に参加するために見津さんが中心になって結成したグループだ。いわゆるノンセクト系だが、ヘルメットにヤッケ姿の定番スタイルと異なる「今風」の外見が特徴だった。活動も、政治集会や学習会ではなく、ギグ(コンサート)と寸劇などの街頭でのパフォーマンスが中心で、音楽活動をしているメンバーも多かった。
嵐・パフォーマンス
天皇が下血し、「X-day」が迫るなかで「歌舞音曲の自粛」ムードが広がり、全国の歩行者天国が中止になるなかで、当時<秋の嵐>がパフォーマンスの拠点としていた原宿の歩行者天国(ホコ天)も中止された。ブームとなっていたホコ天でのバンド演奏も事実上禁止されたが、<秋の嵐>は自粛を受け入れずに、ホコ天バンドのミュージシャンを巻き込んで原宿街頭でのパフォーマンスを続け、しばしば警察の介入を受けるようになっていった。
嵐・見津
89年1月に昭和天皇が死ぬと、「天皇が死んでも悲しくないぞー!」と明治神宮前に集まったところを警察に襲撃され見津さんを含む5人が逮捕された。翌週、これに抗議するギグを右翼と警官隊に襲撃され3人が逮捕されるなど、継続的な弾圧を受ける続ける。伝統的な活動家と異なる不慣れな若者たちが、国家権力から弾圧に耐えながら活動する姿は一定の共感を呼んだ。91年頃までの逮捕、ガサなどの度重なる弾圧を受けた。
秋の嵐旗
ちなみに<秋の嵐>の受けた弾圧の一部について国家賠償請求裁判(「さよならヒロヒト」原宿Xデー国賠)を提起し、原告3人の逮捕と1人への暴行について「違法」とし、賠償を命ずる判決を勝ち取った。見津さんの死後、97年11月に東京高裁で確定している。この種の公安事件としては極めてまれな勝利判決だと思う。

<秋の嵐>の仲間は見津さんが死んだ3月19日頃に、概ね毎年集まって偲んできたが、こうした中で見津さんと共に闘い影響を受けたのは<秋の嵐>だけではない、今年は死後20年だからちょっと盛大に、もっとみんなで集まってみないかという話になった。それから、実行委員会をつくって呼びかけて、実現したのが今回の集い。ちなみに6月7日という日取りには意味はない。
当日は、見津さんの古い仲間が60人以上が集まった。反天連、宗教者など<秋の嵐>に係わった先輩たち、法律家や救援関係者、ノンセクトや国会秘密法に反対する学生交流会の仲間、野宿者支援や戦後補償などなど見津さんが係わった様々な分野の活動家、旧社会党の同僚など、20年以上ぶりに顔をあわせた人も多い。今も何らかの拘りを持って活動を続けている人が多かったのは本当に嬉しいことだった。
高橋よしあきさん
当時よく歌ってもらった野良のニョキさんや、テーゼの高橋よしあきさん(withウィリー)の演奏を聴き、懐かしい影像を見ながら大いに語り合った。〆は、「天皇制打倒!安保法制粉砕!われわれは闘うぞ!」とシュプレヒコール。会館からのクレームをダマシダマシの充実した2時間半となった。2次会にも半数近くが残って、遅くまで旧交を温めた。
見津さんが亡くなって20年、それぞれの立ち位置も立場もまったく変わっているが、見津さんを思い出し、同じ時代を共に闘った仲間と原点を確かめ合うことができた良い会となったと思う。

ロマンさんが逝く2011/06/29

真ん中が深沢さん
 ロマンさんこと、深沢宣夫さんが亡くなった。自ら「男のロマン」と名乗るかっこいいオジさん。
 富士山麓の山荘にツリーハウスを建て、夏はサーファー、冬はスノーボーダー。四輪バギーを乗り回し、チェーンソーカービング。そしてなによりパラグライダーで空を飛ぶことが好きな人だった。
 最初は、ツリーハウス仲間のヒロさんが知り合って、河口湖のツリーハウス村に連れてきてくれた。
 「深沢山荘」にも泊めてもらったことがあるが、手作りでドンドン拡張しいていった秘密基地のような山荘は、まさに男のロマンをくすぐる場所だった。いつもパラグライダー仲間が集まってわいわい楽しい山荘だった。
 そのロマンさんが亡くなったという連絡をもらったのは6月29日の夕方。ウソだろー、そんなわけないだろーと思っていたらニュースが流れてきた。マジかよ-。
 つい1月前には、塩山の開墾地に来てくれて、チェーンソーカービングを披露してくれた。新しくジャングル開墾に来てくれた、板垣君にチェーンソーを教えて、新弟子だ新弟子だって喜んでいたのに…。 こんど、パラで飛ばしてくれと約束したのに…
 フカザワじゃねーぞ、フカサワだー。って、酔っ払って盛り上がってた姿が、ついこの間のことじゃない。
 あまりにも突然で、ウソみたいだけど、深沢さんらしいと言えば深沢さんらしいのかも。空を飛んで逝ったのも…。
 僕も、深沢さんくらいの年になったら、深沢さんのように生きていたい。男のロマンさんこと深沢宣夫さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。
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パラグライダー墜落、男性死亡 静岡・富士宮市

29日午前11時25分ごろ、静岡県富士宮市猪之頭のスカイ朝霧で、山梨県富士河口湖町富士ケ嶺、無職、深沢宣夫さん(66)のパラグライダーが墜落、深沢さんは胸を強く打って搬送先の病院で死亡した。静岡県警富士宮署で事故原因を調べている。
 調べでは、深沢さんが着陸しようとした際、立木に引っかかり、約5メートル下の地面に転落したとみられる。深沢さんは午前10時半ごろからパラグライダーをしていたという。
6月29日(水)17時5分配信

3年B組 金八先生・ファイナル見た2011/03/27

教員 野崎学
 3年B組金八先生を見てたら親父のことを思い出した。96年の8月に亡くなって、すでに15年になるが、福島で中学校の数学の教師をしていた。
 生徒が補導されたといっては警察に行き、生徒の家でトラブルがあったと聞けば夜でも休みでも出かけていく。普段も朝早く出て、夜に家にいてもいつもガリ版切ってプリント作ってる。休みの日も部活だ、行事だと忙しいばかりに見えた。子供心に、大人になっても学校の先生にはなるまいと思っていた。なにしろ大変そうだったから。
 親父は、内心は僕を教師にしたかったようで、何度かさりげなく言われたけど、そのときはまったく魅力を感じなかった。職業活動家になりかけで、大言壮語したい年頃だったんだよね。
 結局、50代中頃に心筋梗塞を起こして、だましだまし定年まで勤め上げて、ほどなく死んだ。僕が喪主をやったのだけど、現役ではなかったので、親戚と教員仲間でせいぜい100人弱くらいと見込んで葬儀の手配をした。
 それがどこで聞きつけたのか、葬儀場にたくさん教え子が集まってくれたんだよね。二百人以上も想定外の教え子さんたちがきたので葬儀場は大混乱になった。なんだよ、お父ーちゃん、俺の知らないところでずいぶん生徒に慕われてたんじゃん。って驚いた。
 その後も自宅に線香をあげに来てくれる教え子さんたちと話していると、結構、金八先生してたみたいなんだな。そういう教え子さん、たいていはかつての「不良」生徒で、「先生がいなければいまの自分はなかった」って言って帰って行く。
 それでようやく、あー、お父ちゃんはそういう仕事をしてたんだ-、ってわかってきたんだよね。先生って大変な仕事だけど、一人一人の生徒と向き合って、それぞれの人生に決定的な役割を果たせるすごい仕事なんだなあと。僕は、教育基本法を守れとか、民主教育を守れとか大きなことを言っているけど、ただ一人の子どもを救うこともできていない。教師ってすごい仕事だなー、僕も教職をもっと本気で考えればよかったなー、と思った。金八先生を見てたら、そんな気持ちを思い出した。

大田リョウのこと2010/10/03

大田リョウさん
 10月3日は、大切な友人・大田リョウの命日だ。
 大田リョウは2002年10月3日に、39才の若さで病死した活動家。元テキ屋、反天皇制全国個人共闘<秋の嵐>のメンバー、救援連絡センター事務局員、中核派に籍を置いていたこともある。セクシャルマイノリティーや表現の自由に関する活動家、高円寺のガード下の占い師と、いわゆる「活動家」の枠に収まらない謎の存在だった。本名、木村美治。大田リョウというのは元トロツキストの「太田竜」からとったらしい。別に太田竜を支持していたわけではなさそうなので、たぶんゴロがよかっただけだろう。
 僕が知り合ったのは<秋の嵐>の活動を通じてだった。大田は原宿のホコ天にトラメガを持ち込んで、通りがかった人に自由に話させる「スピーカーズコーナー」という行動を組織して、X-day後の弾圧を経て停滞していた<秋の嵐>の活動を盛り上げた。テキ屋仕込みの彼の口上がなければ、スピーカーズコーナーの成功は無かったはず。<秋の嵐>中興の立役者だ。もっとも大田リョウが<秋の嵐>として活動したのは主に90年10月頃から91年5月頃で、僕は天皇X-day弾圧のあった89年夏くらいには<秋の嵐>の活動からは離脱していたので、直接いっしょの活動をしたわけではないのだが。
 大田リョウは僕の知っている活動家の中で最も「バカ」でそして最もやさしい人間だった。小利口で計算高いタイプの僕にとって、彼のような常識にとらわれないバカさ加減はうらやましくもった。実際、世の中を動かすのは大田のようなバカヤローなんだよ。
 大田リョウのエピソードを語れば限りない。例えばエイプリルフール警視庁乱入事件。90年4月1日、大田は単身で桜田門の警視庁本庁に乱入したのである。数ヵ月前に中核派の活動家の女性が屈辱的な身体捜索を受けたことへの抗議だった。宿直の警官に「警視総監に会わせろ、いなければここで一番偉い奴を出せ」とわめき散らし、小馬鹿にしたように「一番偉いのはオレだよ」と言った警官を殴り飛ばしたのだ。その場で逮捕され起訴された。当然だよね。バカとしか言いようがない愚かな行為だけど、妙に小気味よく感じてしまう。不器用でやさしい大田リョウにはそれしか出来なかったんだよ。
 大田リョウが死ぬ数日前、しばらく風呂に入っていないから入りたいというので、彼のアパートに行った。大勢の仲間が心配して連日集まっていたけど、車を持ってる人がいなかったので僕が呼ばれたんだね。風呂付の部屋に住んでる友人の家まで乗せていって、ゆっくりねと待っていた。1時間以上しても出てこないので、大丈夫かなってのぞいたら、一生懸命掃除してるんだよ。風呂を。腹水がたまって歩くことさえままならない状態で、這いつくばって掃除をしていた。「そのくらいしかお礼できることがない」と。こいつクルクルパーだな、って涙が出たよ。
 大田リョウがいなくなって、世の中、確実につまらなくなった。結局、僕は彼のことが好きだったんだよね。

※「馬の骨」、<秋の嵐>と行動を共にした鹿島拾市が、山本夜羽音のブログ「DOXA:独立左派」に大田リョウのことを書いている。
「馬の骨」のころ・後編:http://d.hatena.ne.jp/johanne/20040528

森原秀樹が出馬の会見:参議院選挙東京選挙区2010/04/15

森原秀樹出馬会見
 午後2時半から参議院東京選挙区から社民党公認で立候補する予定となった森原秀樹さんの、記者会見に立ち会った。異常に寒い雨がちの天気の下、森原さんや保坂さんらと駅近くで待ち合わせて、東京都庁内の記者クラブに向かう。
 会見には、渕上貞夫社民党全国連合選対委員長、服部良一衆議院議員、保坂展人前衆議院議員(参院比例区予定候補)、北川雄重東京都連合代表、中川直人都連合幹事長らが参加。やや緊張気味ながら、森原さんが出馬の決意に至る心情を語り、熱気ある会見となった。
 現在、服部良一議員の政策秘書を務めている森原さんとは、この間、沖縄問題にいっしょに取り組んで来た仲間。1月のワシントンD.C.への訪米調査団の事務局や、先日の北マリアナ諸島(サイパン・テニアン)視察団の事務局を担った。森原さんが保坂議員の秘書になった昨年春から1年あまりの短い付き合いだが、彼の能力やガッツは十分に分かっているつもりだ。参院東京選挙区は社民党の基礎票だけではなかなか厳しい選挙だが、候補者個人の魅力を全面に押し出してなんとしてでも当選を果たして欲しいと思っている。
 保坂さんは、森原さんを「ミスター・国際人権」と紹介したが、ぬ、ぬ。イマイチだな。なにかいいキャッチはないものか。

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立候補にあたって

森原秀樹

私と日本、そして世界

 ごく一般的なサラリーマン家庭に育った私ですが、父の出身地が広島県で、また、その町の沖合に旧日本軍が毒ガス兵器を秘密製造していた島(大久野島)があり、幼少の頃から戦争・平和といったテーマに関心を持ってきました。そして、学生時代に参加した学生NPOの活動を通じて、世界数10カ国を訪れる機会を得て、世界的な貧富の格差や不平等を目の当たりにし、「世界のなかの日本」という視点とともに「何かが変わらなければいけない」という強い思いを抱くようになりました。学生NPOのリーダーを務めるなかで、「学生・若者の社会的役割」についても真剣に考えた日々でした。

私と政治・社民党

 学生生活を終えてからの10数年間、国際的な人権NGOの専従スタッフを務めました。人間の命や自由を大切にし、いかなる立場の人をも排除しない社会づくりを、国境を越えた連携を通じて実現しようと懸命に活動した10数年でした。日本に住む日本人で、男性で、高等教育も受けているという意味で、ある意味「勝ち組」に属し多数派=マジョリティである自分が、自分の責任として少数派=マイノリティの人びととどのように向き合いともに活動していけるのか、自問自答を繰り返した日々でもありました。

 その間、問題ある法制度を改廃したり、新たに必要とされる法制度を実現したりするために、国の行政や各政党、あるいは国連などにさまざまな働きかけを試みました。話を聞いてくれて共に動いてくれる政党・議員なら党派は問わず接触しました。そうした中、人権や平和を政策にかかげ、一番親身になって相談に乗ってくれて、NGO・市民運動とともに動いてくれたのが社民党でした。

 同時に、そうした活動に携わっていた年月は、新自由主義的政策と二大政党制が強力に推し進められた10数年でした。「強者の論理」「数の論理」ばかりがまかり通るようになり、「弱い者」や「排除された者」、「踏まれた側」の視点がないがしろにされ、少数者の意見が「多数決民主主義」という政治システムの中で無視されていくのをこれ以上見過ごすわけにはいかないと、強く思うようになりました。

 同時に、NGO・市民活動に携わる中で、力不足も大いに実感しました。今、NPOの時代と言われていますが、真に独立し、多くの人々に支持を広げ、政策形成にも影響力を持つNGO・市民運動は、まだ十分には育っていないように思います。いま、新しい世代がもっと力をつけて、いろいろな立場や能力を持った人びとがつながったうえで、少数派や少数者、社会的に弱い立場に追いやられている人たちの現場の声をしっかりとうけとめて、「NGO・市民運動と政治プロセスが新しい形で有効につながること」が必要だと考えるようになりました。

 しかし、少数派や少数者、社会的に弱い立場に追いやられている人たち、そしてNGO・市民運動の「現場の声」を反映させるような政治が必要なのにもかかわらず、社民党の議席数が減っていくのを目の当たりにして、危機感を募らせてきました。なんとしても、マイノリティ=少数派の人びとの立場に立てる政党=社民党が必要だし、少数者の声や存在を意識的・無意識的に無視してしまう危険性のある二大政党制のなかで、しっかりと役割を果たすべきだと強く思うようになりました。

 そのために力を尽くすことが、私が「政治の世界」に身を転じようと決心した理由です。

「政治の世界」への転身

 そうした思いを抱き、昨年、縁あって国会議員秘書に転身し、衆議院総選挙で、それまで私が最も応援していた保坂のぶと前衆議院議員の秘書として選挙事務所(東京8区)で活動する機会を得ました。選挙結果は残念でしたが、保坂のぶと選挙では、旧来から社民党を支持してくださる労働運動・市民運動に加えて多くの市民ボランティアが結集し、とても大きな力を発揮するのを目の当たりにしました。私はそこから、市民運動と政治の新たな関係づくりのヒントを得たように思っています。NGO・市民運動が力をつけ、それが政治(政党)を後押しし、そして力をつけた政党が市民運動をバックアップし…という、いわゆるウィンウィン(win-win)の関係をつくっていかなくては、政治にも市民運動にも未来がないように思います。社民党は、その役割を担えるはずで、そのためには、社民党は変わらなければならないとも思っています。

立候補を決意―連立政権を建て直すために

 総選挙後、やはり社民党の服部良一衆議院議員(比例近畿ブロック)の政策担当秘書として、待ち望んできた「政権交代」という政治の歴史的転換現場の末端に身を置くこととなりました。そして、服部良一議員がそのライフワークとしてきた沖縄の基地問題(普天間問題)への取り組みを中心に、この7カ月間、連立政権の現場を中枢に近いところで見ることになりました。普天間問題やアフガニスタン支援、いわゆる「密約」問題、高校無償化、労働者派遣法改正、中小零細企業支援、原発政策、男女共同参画、子育て支援……この間自分が関わった課題を振り返ると、ひとつはっきりしていることがあります。それは、連立政権の一角を担う社民党がもっと力をつけて、今までの政治にはなかなか届かなかった声―少数派や少数者、社会的に弱い立場に追いやられている人たちや市民運動・労働運動の現場の声―を、政権中枢に届けて具体的な変化をもたらす使命を負っているということです。

 そうした立場から、連立政権を建て直したい、その役に立ちたいと強く思うようになり、今回、立候補を決意しました。

 まだ政治経験が浅い私ですが、東京で育ち生活する者の一人として、さまざまな立場の人びとと一緒に、広がりがあって楽しい選挙活動を展開し、全力で議席獲得を目指します。


まだらめ先生、申し訳ありません2010/03/25

まだらめ先生
 3月25日の常幹で国会同意人事案の取扱いが決着した。今日の衆本会議で採決予定の同意人事への扱いがなかなか決まらずにいたもの。
 正直いって、同意人事の対応が大きな話題になることあまりない。おおよその枠組みがあって順送りの人事が慣例化しているので、野党でもたいていは賛成する。そもそも専門的な知識が必要な分野の委員を政治家や政党が評価すること自体が難しいのだ。
 反対するのは露骨な天下りだとか、委員会の機能自体に批判があるといった形式的な判断がほとんど。まれに問題になるのは、事後的に経歴詐称が明らかになったような瑕疵が明確な場合や、政局的なターゲットになった場合などくらい。
 今回は、原子力安全委員委員予定の班目(まだらめ)春樹氏と 日銀政策委員会審議委員予定の森本宜久氏が対象。班目氏は東大大学院工学系研究科原子力専攻教授で原子力関係の有力な研究者、森本氏は電気事業連合会副会長・東電取締役で原子力産業の人。 
 別にお2人の人物をどうかと言っているわけではないので、こうして大きなニュースになってしまったのはむしろ申し訳ない気もする。森本氏は直近まで「温暖化対策に原子力」との論陣をはられていた記憶が鮮明で、班目氏は珍しい名前で「まだらめはでたらめ」といって原子力批判派から批判されていた経緯が思い起こされちゃったわけです。
 銀行券を発行し通貨・金融の調節を行なうことが目的の日銀政策委員会審議委員に、巨大独占企業であり公益事業の電力業界が委員を出すことは必ずしも適切とは思わないけど、日銀が原子力に直接関係することはないので、関係ないといば関係ないし、まあ決定的に反対することではないかもしれない。ということで斑目さんが焦点に。
 報道では、原発推進だから反対という書き方のものもあったが、そんなことはない。そんなこといったら、もう一人の代谷先生にも反対しなくちゃならないし、もっと大勢反対しなくちゃならなくなる。班目氏は中越沖地震で柏崎原発が破損した後に、原子力安全・保安院が設けた「中越沖地震における原子力施設に関する調査・対策委員会」委員長になり、早々と安全宣言をしたうえ1~2年で運転再開ができるとの見通しを繰り返しコメントするなど、安全性軽視の姿勢を厳しく批判された。浜岡の裁判では中電側の証人として証言して、中電の広報宣伝マンのようだと批判された。ちなみに浜岡訴訟の原告側代理人が海渡弁護士。
 原子力安全委員会は、「原子力の安全確保を図るため」に「安全規制の基本的政策審議や安全審査指針・基準の策定」し、「行政庁による規制の状況を調査し、監視・監督」することが目的であるから、原子力の安全を軽視しているとされ、推進側にお墨付きを与えているのではないのかと疑われている人物を、据えることは確かに好ましくない。しかも、委員長就任が予定されているとのことだし。
 3月12日に人事案が提示されてから、福島党首も結構頑張ったのだが、最終的に23日の閣議では了承。これを受けて、25日の常幹でも賛成やむなしを決めた。班目さんの人事には賛成できないが、かといって連立を壊してまで反対する事案とまではいえない。官房長官から、班目氏に対して安全に十分配慮するよう注意してもらうこと、政府が今後の同意人事について与党内の合意がとれるよう配慮することを条件に、同意することにしたのである。
 僕自身はまだらめ先生とは面識もないし恨みもない。発言を見ると、おもしろいオッサンだなとも思うけど、律儀に安全配慮を徹底してくれると思えないのも事実だな。いずれにしてもまだらめ先生個人をターゲットにしたような感じになったのは申し訳ないです。本当は、いきなり事前に何の相談もなく提案されてきたことが問題で、連立政権内の意思形成や、同意人事の審査の空洞化した実態をどうするのか、というのが本質的な問題かと思います。
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■『六ヶ所村ラプソディ』 斑目春樹教授発言
技術の方はですね、とにかく分かんないけれどもやってみようが、どうしてもあります。で、だめ、危ない、となったら、ちょっとでもその兆候があったら、そこで手を打とうと。おそるおそるですよ。
原子力もそうなんですね。
原子力もそういうところ絶対あります。
だって、例えばですね、原子力発電所を設計した時には、応力腐食割れ、SCCなんてのは知らなかったんです。
だけど、あの、まだいろんなそういうわかんないことがあるから、あの、えーと、安全率っていうかですね、余裕をたーくさんもって、でその余裕に収まるだろうなーと思って始めてるわけですよ。
そしたら、SCCが出てきちゃった。
で、チェックしてみたら、まあこれはこのへんなんか収まって良かった、良かった。
今まで、良かった良かったで、きてます。
ただし、良かったじゃないシナリオもあるでしょうねって言われると思うんですよ。
その時は、原子力発電所止まっちゃいますね。
原子力発電に対して、安心する日なんかきませんよ。
せめて信頼して欲しいと思いますけど。
安心なんかできるわけないじゃないですか、あんな不気味なの。
廃棄物の最終処分をすることに技術的な問題はなくても、そこを受け入れる場所が、なければ、今、困っちゃいますもん。
ないですよね、探せても、イギリスまで、
うん、ないですよ。
それは、大きな問題じゃないですか
え、いや、だから、あのー、えーと、基本的に、その何ていうのかな、今の路線で、今の路線がほんとに正しいかどうかは別として、今の路線かなんかで、替えがあるだろうと思ってるわけですよ。
というのは、最後の処分地の話は、最後は結局お金でしょ。
あの、どうしても、その、えーと、みんなが受け入れてくれないっていうんだったら、じゃ、おたくには、今までこれこれっていってたけど2倍払いましょ。それでも手を挙げないんだったら、5倍払いましょ。10倍払いましょ。どっかで国民が納得することがでてきますよ。
それは、経済的インセンティブと、そのー、あの、処理費なんてたかが知れているから、えー、たぶん、その、齟齬は来さないですね。
今、たしか、最終処分地を受け入れてくれるボーリング調査させてくれるだけで、すごいお金流してますね。
20億円ですよ。
あれがたかが知れてるらしいですよ、あの世界は。
そうなんですか。
原子力発電所って、ものすごい儲かっているんでしょうね、きっとね。
そりゃそうですよ、原子力発電所1日止めると、1億どころじゃないわけですよね。
だから、そういう意味からいくと、今動いている原子力発電所をつぶす気なんてアメリカ毛頭ないし、日本も電力会社、あるものはあるもの、できる限り使いたいというのがこれが本当、本音ですよ。

■浜岡原発での証言
(事故・トラブルについて、制御棒落下事故が明らかになる前に)「これは, かなりの知見が蓄積されています。したがって, これから先, 新しい知見が出てくることはないとは, やっぱり思いません。これから先も, 新しい知見は出てくると思います。だけれども, 大きな知見については, もう, 大体出たんではないかなというのが, 実は,私の, これは個人的な考えです。」(第13回主尋問)
制御棒の2本以上の同時の落下について、「起きるとは, ちょっと私には思えません。どういうふうなことを考えるんですか。それに似たような事象があったら, 教えてください。」(反対尋問)
「非常用ディーゼルが2台動かなくても, 通常運転中だったら何も起きません。ですから非常用ディーゼルが2台同時に壊れて, いろいろな問題が起こるためには, そのほかにもあれも起こる, これも起こる,あれも起こる, これも起こると, 仮定の上に何個も重ねて, 初めて大事故に至るわけです。だからそういうときに, 非常用ディーゼル2個の破断も考えましょう, こう考えましょうと言っていると, 設計ができなくなっちゃうんですよ。つまり何でもかんでも, これも可能性ちょっとある, これはちょっと可能性がある, そういうものを全部組み合わせていったら, ものなんて絶対造れません。だからどっかでは割り切るんです。」
「どっかで割り切るということは, ものを造るために, この程度を考慮すれば造ってもいいだろうという感じですね。」
「そのとおりです。」
「非常用ディーゼル発電機2台が同時に動かないということは, それ自体は,地震が発生したときに, 非常用ディーゼル発電機に寄り掛かっている, 動かさなくちゃいけないものが止まってしまうということがあり得るわけですから, 非常用発電機2台が同時に動かないという事態自体は, 大きな問題ではないですか。」
「非常用ディーゼル発電機2台が動かないという事例が発見された場合には, 多分, 保安院にも特別委員会ができて, この問題について真剣に考え出します。事例があったら教えてください。ですからそれが重要な事態だということは認めます。」
「重要な事態であれば, 非常用発電機2台が同時に止まったときに, ほかに何か, 別の重要な事態が加わって, それで事故が発生するというのは, 幾つか想定しなくてはいけないことではないんですか。先ほどから証人は, それに加えるのは小さなこと小さなことを加えなきやいけないから大変だと言って, ここは割り切るとおっしゃっていますけれども, 足す別の重大な事象ということが, 大きいことがあり得るんだということは, お認めにはならない。」
「我々, ある意味では非常に謙虚です。こういう事態とこういう事態とこういう事態の重ね合わせくらいは考えたほうがいいかなということについては, 聞く耳を持っております。是非こういうことについては考えてほしい, それはなるほど問題視したほうがいいということだったらば, 当然, 国の方でもそういうことについて審議を始めます。聞く耳を持たないという態度ではないんです。ただ今みたいに抽象的に,あれも起こって, これも起こって, これも起こって, だから地震だったら大変なことになるんだからという, 抽象的なことを言われた場合には, お答えのしようがありません。」(第17回 反対尋問)

見津毅君の命日でした2010/03/20

見津毅君の命日
 3月19日は、古い友人の見津毅君が亡くなった日。95年3月19日に見津君は27歳の若さでバイクの事故で亡くなった。彼とは国家秘密法の反対運動で知り合って、反天皇制の運動やら、なにやらと長年近い運動領域で活動してきた。ケンカ相手であり、ライバルであり、同志でもある腐れ縁で、最後はお互いに社会党の書記になって同僚となった。誕生日も4日違いで同じ年だった。見津君との出会いがなければ、多分いまの自分はなかっただろう。彼が死んでもう15年になるんだよね。
 そんなことで、だいたい命日の前後に古い仲間と飲み会をやっているんだけど、今年は普天間問題やらなにやらと本業が立て込んでしまって、まともに呼びかけが出来なかった。それでもまあ、と思って19日夜に呼びかけて3月20日を飲み会に。場所の設定も出来なかったので、僕の自宅マンションのラウンジを借りて持ち寄りのつまみでやるという強硬な内容だったけど、5人も集まってくれました。後から、何人かから急すぎて行けなかったと叱られたけど、勘弁勘弁。来年は17回忌だからもう少しちゃんとやりますので。

田英夫さん逝去2009/11/17

07年7月田さんと
 田先生が亡くなった。11月13日朝に亡くなり、故人の遺志で17日に親族のみで告別式を済ませたとのこと。訃報が流れたのはその後だ。1923年生まれ、享年86歳。
 本人の経歴やら業績なんかは、あちこちで振りかえるだろうから、あえて言う必要はないかもしれないけど記録的に簡単に。共同通信記者として東京裁判の取材に当たり、第一次南極観測隊員として報道を担当し、TBSに移って「ニュースキャスター」の草分けとして活躍。西側テレビとして初めてベトナム戦争下の北ベトナムを取材、反米的として政府・自民党の圧力で降版させられた反骨の有名ジャーナリスト。71年参議院全国区で192万票の大量得票でトップ当選し、社会党に所属して活躍。75年には楢崎弥之助氏らと「新しい流れの会」を結成するなどして党内官僚派グループとたたかい、77年選挙で2度目のトップ当選を果たした直後に離党。78年に社会民主連合を結成し代表となる。この辺の事情は相当複雑になるので党外の人にはほとんど理解不能かもしれません。83年に参院比例区で3選。89年には東京選挙区でトップ当選。95年は新党「平和・市民」から東京選挙区で当選。97年には社民党に入党した。01選挙ではいったん引退を決めるが、乞われて比例区で出馬し惜敗。03年に上位当選の田嶋陽子氏の辞職に伴って繰り上げ当選している。東京帝大入学直後に学徒出陣で徴兵され特攻隊に配属されたが、出撃命令を受ける直前に終戦を迎え、命拾いをした逸話もある。
 地盤も看板もカバンも受け継いでいないので世襲議員とはいわれないのだけど、祖父が貴族院議員や台湾総督を務めた田健治郎男爵。僕が直接知っている政治家の中で、唯一名望家政治家の雰囲気を感じさせてくれる人だった。
 僕は最晩年の田さんに大変お世話になった。99年に原水禁の役員を辞めて社民党に戻って、さーどうすっかなと思ってたところを、外交・防衛部会長だった田さんに呼ばれて政策審議会に来た。人事のことなのでどろどろした面はあるんだけど、いろいろある中で、田さんに引かれなければたぶん政審に移れたか分からない。その後、01年に落選するまで外交、平和、憲法問題などを事務局として担当させていただいた。
 直接に親しくしてもらうまでは、平和志向のリベラルな有名人かな、くらいに思っていたんだけど、実物は想像よりずっとすごい人だったよ。どこに出しても、誰にあわせても安心。いろんな人の思いを受け止めて、政治に昇華しちゃう。金大中やキュー・サムファンと仲良しかと思えば、「社会党の天下になったら野球、野球っていっておられるかどうか、わかりませんからね」と言って物議を醸したかの長嶋茂雄氏ともジャーナリスト時代からの仲良し。長嶋さんは選挙の応援にも来てくれてた。(※ちなみに社会党は野球を禁止しないことをコメント。後にキューバを訪問した長嶋さんは社会主義国で野球が盛んなことを見て、帰国後カストロやゲバラを絶賛していたらしい)
 戦中派として、ジャーナリストとして、政治家として、平和主義者として、左翼として、ヤンゴトナキ生まれの人としても、非常に幅の広い人脈をもっていた。対応は極めてリベラルに、信念はあくまで固く、政治家の中の政治家だったと思う。僕が知己を得たのは最晩年の一時期に過ぎないので、若くて元気のあった時代にはさぞかし力があっただろうなぁ、と思うな。
 01年にいったん落選して、03年に繰り上げで国会に戻ってこられたときには、党の外交・防衛部会長は今川正美議員が受け継いでいたし、参院の外防委員会も大田昌秀議員が担当されていたため、得意な分野を担当できず歯がゆかったかも知れない。僕も事務局的な関わりはごく薄くなって、時折、世間話をする程度となってしまった。逆に、このために党や国会の任務から解放されて、「特攻の語り部」として遺言を残せたという面はあるかも知れません。まだまだ話を聞きたいという要望は多かったので、もっともっとお元気で伝えて欲しかったという気持ちはありますが。まあ1人の人間の人生としてはかなり充実した一生だったのではないでしょうか。
 いずれにしても、田先生、本当にお世話になりました。心からご冥福をお祈りします。

加藤和彦氏が自殺 ヤック・デカルチャー2009/10/19

加藤和彦
 加藤和彦さんが死んだ。10月17日、軽井沢のホテルで首をつって自殺したらしい。うつ病が悪化していて、遺書もあったということだから、たぶんそうなのだろう。
 もちろん楽曲を通じて知っているだけで、直接本人を知っているわけではないけど、団塊の星がまた一つ落ちたって感じで、寂しいな。「ザ・フォーク・クルセダーズ」も「サディスティック・ミカ・バンド」も時代の壁を破って先の方へ転がっていったような印象。北山修には学生運動チックな香りがして結構親近感があったけど、加藤和彦はもっとずーと主観的で先の方を走っていたように感じていた。ちなみに北山さんの方は医者になって精神分析学会の会長をやったりして偉くなってるんだよね。
 まあ280万枚売れたという「帰って来たヨッパライ」は別格なんだろうけど、代表作っていうと「イムジン河」、「悲しくてやりきれない」、「水虫の唄」、「青年は荒野をめざす」、「あの素晴しい愛をもう一度」って、どの記事も書いてある。
 ちょっとちゃうよ。イムジン河なんかはエピソードとしてはおもしろいけど、別に彼の曲じゃない。加藤和彦の代表作は、妻の安井かずみが詞を書いた『愛・おぼえていますか』だろう。超時空要塞マクロスで、ゼントラーディー軍とメルトランディ軍の闘いの帰趨を決する歌だかんね。やっぱ。僕なんか訃報を聞いたとき、頭の中を飯島真理の声がぐわんぐわん鳴り響いたけどね。この名曲のことがほとんど報道で出てこないのは、やはりアニメを軽く見ているのか。ヤック・デカルチャー!