勘弁してよ~ 田母神さん2009/08/26

 田母神俊雄・元航空幕僚長は8月25日、衆院宮崎1区の無所属前職の応援演説で、広島原爆の日の6日に開催された市の平和記念式典の列席者について「被爆者も2世もいない。左翼ばかりだ」などと発言したという。
 田母神氏は演説で6日に広島市で講演したことを紹介。さらに平和記念式典について「慰霊祭は左翼運動。あそこに広島市民も県民もほとんどいない。原爆の被爆者も2世もいない。並んでいるのは全国から集まった左翼。一部政治勢力が日本弱体化を図っている」などと述べたと報道されている。

 勘弁してよ~。田母神さん。
 田母神さんは高校の先輩だというのもあって、僕はそんなに悪く思っていないのですよ。もちろん世代が違うので直接面識は無いんだけど、気のいいおっチャンで、ややオッチョコチョイながら、真面目で面倒見もよいといわれている。たぶん高校の同窓生の中で自衛隊で一番偉くなった人だし。
 アパホテルの懸賞論文なんかに応募するところがそもそも軽率だし、出来レースで受賞して喜ぶあたりも可愛らしい。論文の内容とか、彼の思想や立場はもちろん、大反対なんだけど、あのくらいの右翼ぶりは保守の政治家にはゴロゴロいる。まあ、ケシカランとは思うけど、政界なんてケシカラン奴ばかりなわけだから目くじら立ててもいられないし。
 しかし、平和記念式典の話は、どう考えてもあまりにも無茶苦茶な誤り。そんなアホな話はないでしょう。むしろあれが全部左翼だったら、非常にうれしいけどね。たぶん自分では見てもいないのだろうけど、こういう明々白々なウソを言っちゃうのは自分を貶めちゃいますよ。先輩!
 ちなみに、09年3月末現在の被爆者で広島市内に在住しているのは7万3666人、その他広島県内に3万3116人だ。これは被爆者健康手帳の数だから、厚労省が「被爆者」と認めた被爆者の数で、これだけでざっと10万人以上になる。実際には手帳を持たない被爆者も大勢いるし、2世3世をいれればさらにずっと多くなる。もちろん式典に全員が来るわけはないけど、被爆者・遺族のための2000席が埋まらないわけはない。式典の参加者全体は約5万人だから、もちろん被爆者以外も大勢いるし、その中には左翼的な人もいるかもしれないけど、広島市民も県民も被爆者も2世もほとんどいなくて全部左翼なんて、荒唐無稽もいいとこだ。
 しかもその根拠は「広島の友人がみんなそういっている」からだ、っていうんだからあきれる。別に市の式典を批判してもいいし、広島の平和運動を批判してもいい。平和運動のなかではどちらかと言えば左派勢力が主導権を持っているのも事実でしょう。それを批判したって別にかまわない。でも、批判は事実に基づいてやっていただきたい。根拠薄弱意味不明のことを言って被爆者を冒涜するのは許せない。
 まあ、左翼から批判され、右翼から持ち上げられ、トチ狂ってるのかもしれないが、「軍人」ならもう少しリアリストじゃないとね。「北朝鮮に住んでいるのは普通の人間じゃない。住んでいるのは全員反日のテロリストだ。アメリカの友人がそういっていたから確かだ」っていうのと同じレベルだべ。批判は批判で結構なので、事実に基づいてもう少しまともなことを言ってください。田母神先輩! 安積高校の後輩が泣いてます。

マクナマラが死んだ2009/07/07

マクナマラとケネディ
 ロバート・マクナマラが死んだ。
 ケネディ、ジョンソン両大統領の下で国防長官を務め、ベトナム戦争を主導したロバート・マクナマラ元米国防長官が、7月6日、ワシントンの自宅で亡くなった。93歳。
 ハーバード大で経営学を教えた後、自動車メーカー・フォードに入り社長を務めた。第2次世界大戦では兵站を担い東京大空襲の作戦にもかかわった。フォード社の社長を務めていた1961年、ケネディ大統領に請われて国防長官に就任。68年まで務めた。マクナマラ長官の下で米国は愚かなベトナム戦争にのめり込み、当初数百人だったベトナム駐留米兵の数は64年には1万7000人、68年には53万5000にも増加した。62年に旧ソ連のミサイル基地建設に関し米ソが対立したキューバ危機に対応し、統計など経営手法を用いて軍の予算改革などに取り組んだ。
 95年に出版した回顧録『ベトナムの悲劇と教訓』では、「ベトナム戦争における決定に参加した米国の幹部たちは…間違った。非常に恐ろしい過ちを犯した」と書いた。国防長官を辞任後、81年まで世界銀行総裁を務めた。

 僕にとって、マクナマラと言えば、アメリカの核ドクトリンの基礎を築いた人間、相互確証破壊(MAD)の狂気の均衡を制度化した人間という印象が強い。1960年代という米ソ核軍拡競争が最も激しかった時代に国防長官として核戦略と、核戦力について重要な決定を行なったのである。

柔軟反応戦略…拡大抑止ドクトリンの確立
 まず、マクナマラは大量報復戦略のように、通常戦争が直ちに核戦争に移行する戦略は危険と考え、ソ連の通常戦力攻撃にNATOはなるべく通常戦力で対応すべきとした。西欧はコスト面からマクナマラ提案に反対し、アメリカの核の傘に依存する大量報復戦略型の抑止に固執したため、米欧間での激しい議論を起こした。結果的に67年に「柔軟反応戦略」がNATOの公式戦略として採用される。柔軟反応戦略はソ連が西欧に通常戦力で攻撃してきた時は、NATO側は可能なかぎり通常戦力で抵抗し、それでもソ連側を食い止められないと判断された時は、西欧の戦術核兵器の使用に踏み切り、最終的には米本土から戦略核を発射するというもの。「通常戦力による抵抗→戦術核の使用→戦略核の使用」というエスカレーションの対応を平時からソ連に伝えることによって、ソ連の侵略を抑止するわけだ。
 西欧諸国の生存とアメリカ対ソ核使用威嚇とをリンクさせるカップリングによる抑止戦略をフランス以外の西欧諸国は受け入れた。ドゴールのフランスはNATO軍事機構から脱退し、独自の核開発の道を選んだ。西欧をソ連から守るためのアメリカの戦略である柔軟反応戦略は「拡大抑止」と呼ばれ、日本など西側同盟国を守る「核の傘」として体系化され現在に至っている。

戦略抑止と相互確証破壊(MAD)の制度化
 米ソ二国間の核抑止である「戦略抑止」についてもマクナマラの下で大枠が形成された。マクナマラは、まずソ連の核攻撃からアメリカが被る損害を最小限に抑える方法を模索した。いわゆる「損害限定」政策である。損害限定のために最初に考えられた方法は、有事の際にソ連の核戦力をアメリカの核攻撃で無力化する「カウンターフォース」戦略であった。カウンターフォース戦略は、先制核攻撃能力を追求することと同じで、核軍拡競争をエスカレーションさせ、国防予算の膨張圧力を高めるとして、トーンダウンした。次に検討されたのは「民間防衛計画」である。マクナマラは、核戦争に備えた各種の防衛策や避難訓練等を考えたが、アメリカ市民はプライバシー等の面から抵抗感が強く、実際には難しかった。
 1960年代の米軍は、ソ連のミサイルを迎撃する弾道弾迎撃ミサイル(ABM)の開発を進めていたが、マクナマラはこれにより米ソ間の軍拡競争がさらに激化することを懸念して消極的であったといわれている。
 結局、マクナマラは核攻撃に対する防御の可能性をすてて米ソが相互に核攻撃に対して脆弱な状態を保つことを前提にして、核攻撃を受けるリスクを避けるために相互に核戦争回避を追求させるという、核抑止体制を理論化した。これが「確証破壊」戦略である。
 マクナマラの定義した確証破壊は、ソ連から核攻撃を受けた後に生き残ったアメリカの核戦力でソ連の人口の4分の1~3分の1、産業の3分の2を確実に破壊する能力を持つことを示せば、米ソ間の核戦争は起らない、というものである。核攻撃を受けた後でも相手に耐え難い報復を加える戦力、「生き残り能力のある第2撃力」がアメリカの核戦力規模と構成を決める理念とされ、1960年代後半にICBM、SLBM、戦略爆撃機の3種類の運搬手段と核を保持する戦略が定まったのである。
 72年に米ソが調印したSALT1によって、米ソの核戦力が均衡する水準で凍結され、同時に調印されたABM条約によって互いの防御の可能性を捨て去った。米ソが互いに確証破壊能力を持つ「相互確証破壊」(MAD)の核抑止体制が制度的に固められた。こうした互いの命に刃を突き付け合う、膠着した均衡状態の制度化の枠組みを作ったのがマクナマラだったのである。

 ニクソン政権下での「エスカレーションコントロール」(シュレンジャー・ドクトリン)も、カーター政権下での、「相殺戦略」も、マクナマラの確証破壊戦略の枠内のものである。レーガン政権は「戦略防衛構想」(SDI)によってMAD型の抑止戦略からの転換をはかったが、研究計画の段階に止まった。冷戦終結後のパパ・ブッシュ政権は冷戦終結というドラスティックな環境変化を受けた目前の課題への対応に追われ、クリント政権によって核戦略の見直しに着手された。これ以降は、まさに現代的課題。ブッシュ政権の「核先制攻撃戦略」、オバマ政権の「核不拡散」への傾斜と究極的核廃絶宣言へとつながっている。

 結局、マクナマラの核ドクトリンが40年にわたって世界を支配してきたとも言えるわけです。どんな問題にも答えを見つける傲慢な「人間計算機」、ベトナム戦争の「戦争犯罪人」、すぐに泣く「泣き虫男」…。複雑怪奇な人間だったようだ。もちろん僕は会ったこともないのだけど、一度話を聞いてみたかったな。
 合掌。

5・19 太田竜氏が死去2009/05/19

太田竜
 いやあ、太田竜さん死んじゃったんだねえ。そもそもご存命だったのを知らなかったけど、日本の左翼運動の一つの源流とも言える人だからさすがに感慨深い。享年78歳ということだから、06年に78歳で亡くなった黒田寛一(革マル派の教組)より若かったんだなあ。
 日本みどりの連合とかつくって86年の参議院選挙とか翌年の都知事選にでたのを見て、何なんだろうと思ってから、彼の主張をまともに認識しなくなったんだけど、頑張っていたんだなぁ。
 MELTの寺岡衛さんと江藤正修さんが出した『戦後左翼はなぜ解体したのか』(同時代社刊)の別冊『資料集』のなかで、小島昌光さんが太田さんのことを書いていたのを、たまたまつい最近読んだのです。曰く「1週間に1回、400字詰めで10枚の原稿を書くが、書き始めから書き終わりまでほとんど修正がない。一気に原稿を書いても、起承転結がはっきりしている。ものすごい頭脳で、常人ではない」と。「放っておけば太田竜から原稿が次々出てくる」、「太田竜の頭の中に百科事典が入っている。知らないことが何もない。何かあると、それをすぐマルクス主義的に分析する。…全部知っている。即、論文が書ける。例えば○○問題で…論文を書けといったら、あっという間に書く。革命の戦略まで書いてしまう」んだそうな。
 本当かよ?と思うけど、彼らは太田竜派の人々ではないから別にお世辞を言っているとも思えない。じゃあ、なんで革命出来なかったのよ?とかも思うけど、そんな人間が生きてるならぜひ一度、会ってみたかった。
 フランスではLCR(第4インター)のオリヴィエ・ブザンスノーが大人気で「反資本主義新党(NPA)」を結成して大統領選のダークホースとなっているとか、日本でも政権交代があるかもしれないとか、JRCL(日本革命的共産主義者同盟)と「労働者の力」派が機関紙共同編集を決定したとか、激動の世の中をどう思っていたのだろう。

森瀧市郎:「核絶対否定」を貫いた哲学者2009/05/09

座り込む森瀧先生
自分が影響された人といえば、最初にあげなくてはならないのはやはり森瀧市郎先生でしょうか。
森瀧先生は日本の平和運動における第一人者であり、核実験や戦争に抗議して平和公園で座り込むその姿は、被爆都市ヒロシマの象徴と言われました。被爆によって右目を失いながら、遠く核のない未来を見つめ、反核・平和、ヒバクシャ運動に力を尽くされたその人生が、原水禁運動の歩みそのものであることを否定する人はいないでしょう。

僕が東京の原水禁国民会議の事務局で働きはじめた1987年頃は、森瀧先生はすでに80代後半のご高齢だったうえ広島にお住まいでしたらから、生の森瀧先生と接した機会はそれほど多くはありません。たまにお会いしても、相手は原水禁運動の象徴的指導者、こちらはぺーぺーのバイト学生ですから気軽に話しかけるわけにもいかず、「あ、生森瀧だ!」と思いながらドキドキしていたのが関の山でした。本当はもっと根掘り葉掘り聞きたいこともたくさんあったのだけど、なかなかそこまではできなかった。それでも末席で同席させてもらったり、ご一緒させていただくときもあって、そのオーラに圧倒されたものです。
最初はみんな持ち上げるけどただのじいさんじゃないの?と思っていたけど、そのうち下手なこと言ったら「ダマラッシャイ」と杖で一喝されそうな気難しい老学者先生に見えてきたりして、結局、そのどちらも森瀧先生だったのですね。「核」につながるものに徹底して厳しく、人間として共に生きようとするすべての人に優しく、時には頑固な老哲学者であり、いつもは普通のおじいさん。ただただ核と闘い抜いたその信念と生き様が、多くの人々に影響を与えてきたのです。
おかげで僕も反核・平和をライフワークとしてやっています。かなり頼りないですが、頑張っていくつもりですから、どうか見守ってください。たまたまNHKの番組で森瀧先生の特集をしていたので、森瀧先生のことを思い出した次第です。
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森瀧市郎先生(略歴)
原水爆禁止日本国民会議議長、広島大学名誉教授

1901年 4月 広島県双三郡君田村に生まれる
1925年 3月 広島高等師範卒業
1925年 4月 広島県立三次中学校教諭に就任
1927年 4月 京都帝国大学文学部哲学科入学
1930年 3月 京都帝国大学文学部哲学科卒業
1930年 4月 京都帝国大学大学院。兼京都高等蚕糸学校(現京都工芸繊維大学)講師。
1931年 3月 京都大学大学院卒業、同年、広島高等師範教授
1931年12月 西しげと結婚、広島市白島中町に住む
1932年 6月 慢性肋膜炎のため入院(10月まで)
1943年 8月 広島市翠町に転居
1945年 8月 広島市江波町の三菱重工江波造船所の動員学徒の教官室で原爆に被爆。ガラスの破片で右目を失う
1946年 9月 被爆した目の治療のため入院
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入院生活中に「力の文明」を否定して、宗教道徳が主座につく精神文明が復位すべきだとする「慈の文化」に思い至る。
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1946年 3月 高師に単身帰任
1950年 2月 広島文理大学文学部教授に就任
1950年11月 博士学位論文「英国倫理研究」
1951年 9月 広島大学平和問題研究会発会。世話人の一人となる
1952年 8月 広島市霞町に転居
1952年12月 学位論文が文理大学教授会を通過
1953年 4月 広島大学文学部教授(文理大廃止)。
1953年 2月 広島こどもを守る会会長となる。原爆孤児の救済運動(精神養子運動)を始める。平和と学問も守る大学人の会に参加
1954年 4月 佐伯郡五日市町海老園に転居
1954年 5月 原水爆禁止広島市民大会を開催
1954年 5月 原水爆禁止を求める「百万署名」の街頭署名運動をはじめる。
1954年 7月 原水爆禁止広島県運動本部を結成、事務局長となる
1954年 8月 原水爆禁止広島平和大会で一般経過報告
1954年 9月 県民運動本部を発展的に解消し、原水爆禁止運動広島協議会」(広島原水協)を結成し事務局長となる(後に代表委員)。
1954年10月 第一回原水爆禁止世界大会の開催を原水爆禁止署名運動全国協議会の総会に提案
1955年 8月 第一回原水爆禁止世界大会が広島で開催、現地事務局長を務める
1955年 9月 原水爆禁止日本協議会(日本原水協)発足、やがてその常任理事・代表委員の一人となる
1956年 3月 最初の原爆被害者大会の開催に尽力
1956年 5月 広島県原爆被害者団体協議会を結成し理事長となる
1956年 8月 日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)発足、代表委員の一人となる
1957年 3月 イギリス・クリスマス島の水爆実験計画に抗議して慰霊碑前に座り込む
1957年 4月 原水爆実験阻止広島市民大会
1957年 8月 原水爆禁止国民平和使節として、英、独、仏、オーストリアを訪問
1957年 8月 英・北ウエールズの山荘でバートランド・ラッセル博士と会見
1957年 8月 西ドイツの核武装に反対する「ゲンチンゲン宣言」の学者と会見
1957年 9月 第三回パグオッシュ会議を実現したオーストリア大統領シェルフ博士と会見
1958年 5月 原爆の子の像除幕。募金活動に奔走
1958年 6月 広島~東京一千キロ国民平和大行進の成功に尽力
1958年 7月 中国新聞に、後年有名となる「人類は生きねばならぬ」という命題をのべた一文を発表
1960年 8月 日本被団協総会が代表委員制を改め理事長となる。被爆者援護法制定要求運動への本格的な取り組みを開始
1962年 4月 アメリカとソビエトの核実験に抗議し(大学に辞表を提出し)て17日間慰霊碑の前に座り込む(後に核実験の都度の座込みの発端)
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このとき「精神的原子の連鎖反応が 物質的原子の連鎖反応にかたねばならぬ。
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1962年 6月 ガーナの首都アクラで開催された「原爆のない世界のためのアクラ会議にエンクルマ大統領に招待され、ガーナ、ガボンのランバレネ、ギリシャを訪問
1962年 6月 赤道直下のランバレネの病院でシュバイツアー博士と会県
1963年 8月 第九回原水爆禁止世界大会で「いかなる国の核実験にも反対」というスローガンと部分的核実験禁止条約の賛否をめぐって日本原水協分裂
1963年12月 東京地裁で「原爆裁判」の判決
1964年 3月 原水爆禁止三県連絡会議(後に原水禁に発展)
1964年 4月 全地婦連、日青協、日本原水協を脱退
1964年 6月 広島県原水爆禁止協議会分裂。共産党系理事脱退
1964年 6月 佐久間澄広島大教授(原水協)、村上忠敬広島大教授(核禁会議)らとともに「談話会」をつくり、被爆20周年を翌年に控えて、政府に「原爆被害白書」をつくらせる運動を開始
1964年 6月 日本原水協理事会によって「代表委員より除外」される。
1964年 8月 「社会新報」に「被爆地の願い――社会党・総評の皆さんに訴える」を公表。「いかなる」問題に言及
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三被爆地から訴えた運動の正常化はただに国民的統一のみならず人類的国際的統一の芽さえもつところのものであって、系列化固定化は絶対望むところではない。真に被爆地から被爆者の心に立って起こる運動であれば、いずれの側のものでもなければ、いずれの国につくものでもなく、生きんとする人類すべてをつなぐ運動たりうるのである。
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1964年10月 国際協力と軍縮のためのオーストラリア会議に出席するためオーストラリアを訪問。アボリジニに対する人種差別と「核の被害」に注目
1965年 1月 肺炎にかかり2月迄、絶対安静。
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被爆20周年の決意をこめて、後に有名となる「人類は生きねばならぬ」の書き初めをする
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1965年 2月 原水爆禁止日本国民会議(原水禁)が発足、代表委員に就任(事務局長は伊藤満氏)。原水爆禁止広島県協議会代表委員となる
1965年 2月 広島大学での最終講義「平和倫理の研究と実践」
1965年 3月 広島大学新聞に「被爆20周年を期し学園関係原爆犠牲者慰霊碑を建設せよ」と提案(73年に慰霊碑建立)
1965年 3月 広島大学定年退官、広島大学名誉教授となる
1965年 4月 ソ連平和委員会の招待により被爆者平和使節団団長としてソ連を訪問
1966年 6月 日本被団協理事長に初の決戦投票(相手は日本原水協代表理事)により選出。日本被団協分裂を回避し統一を保持した
1966年11月 原水爆禁止運動三団体の賛意をうけて原爆ドーム保存の募金運動に奔走
1967年 3月 原爆被爆者特別措置に関する法律の提案にともなう日本被団協の国会請願行動の先頭に。被爆者援護法の制定を求める運動は大きく盛り上がったが、5月に成立した法律は、被爆者の要求とはほど遠いものに
1969年 7月 第61国会で参議院の社会労働委員会参考人として「国家補償としての被爆者援護法の制定」を要求(自民党は当初国家補償を含めると約束したと追求。国は被爆者対策は「社会保障」の枠内に固執
1969年 8月 原水禁世界大会・沖縄国際会議のため、はじめて沖縄を訪問
1970年 8月 日本被団協総会。自らの提案による規約改正(集団指導体制への移行)に伴い理事長を辞任
1970年11月 ヒロシマ会議(現代における平和の条件)に出席
1971年 4月 反核を訴えるため、世界一周旅行に出発。アメリカ、イギリス、西ドイツ、フランス、スウェーデン、ソ連、ユーゴスラビアを訪問。アメリカではライナス・ポーリング博士と会見。ベトナム反戦ワシントン大集会で演説
1971年11月 岩国基地撤去大集会でデモの先頭にたつ
1973年 1月 密航韓国人被爆者の広島赤十字病院入院に尽力して実現。同被爆者は後に裁判で被爆者手帳も取得
1973年 7月 フランスの核実験抗議のため座込み。以来、核実験の度毎に慰霊碑の前に座り込む
1973年 7月 桑原裁判を支援する会を結成(「認定」裁判)。
1973年 8月 広島県民集会で決意表明
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若き後継の人たちも育ち、いつ倒れてもよいと思う。命ある限りたたかう。
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1974年 5月 被爆者援護法案の廃案に抗議声明を出す。被爆証人探しをはじめる
1974年 5月 フランス核実験抗議のため、フランス、イギリス、イタリアを訪問
1974年 6月 モルロア核実験に反対している「爆弾に反対するフランス人連合」会長ボラディエール将軍をブルタニューに訪問
1974年 7月 核兵器完全禁止をめざし団結をよびかける広島の学者・文化人(12人)のアピールに名を連ねる
1974年 8月 朝日新聞の「広島と世界の往復書簡」でノエル・ベーカー博士と対話。「慈の文化」を語る
1974年 9月 焼津市で開催された原水協・原水禁両団体関係者の統一的な集会に列席
1975年 4月 非核太平洋会議出席のためフィジー訪問
1975年 4月 被爆者の特別措置法改正案を審議中の衆議院社会労働委員会で参考人として意見陳述。「国家補償の援護法」を要求(社公民共四党が保革伯仲の参議院に援護法案を提出。同法は7月に廃案
1975年 5月 アメリカの核実験に抗議してリフトン教授等と慰霊碑前に座り込む
1975年 6月 原水禁運動の統一をめざす七者懇談会(8月1日に流会)
1975年 8月 被爆30周年原水禁世界大会・広島大会で「核絶対否定」の理念をのべる
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核分裂エネルギーにたより続けたら、この地球全体がプルトニウムや放射性廃棄物の故に、人類の生存をあやうくされるのであります。私たちは今日まで核の軍事利用を絶対に否定してきましたが、いまや核の平和利用とよばれる核分裂エネルギーの利用をも否定しなければならぬ核時代に突入したのであります。しょせん、核は軍事利用であれ平和利用であれ、地球上の人間の生存を否定するものである、と断ぜざるをえないのであります。結局、核と人類は共存できないのであります。
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1976年 8月 被爆31周年原水爆禁止世界大会の基調演説で「核絶対否定の理念」を強調、核兵器も原発もない「核のない未来」の実現を訴える
1976年10月 福井県敦賀で原発反対全国活動者会議で主催者代表あいさつ
1977年 4月 2つの広島県被団協が分裂後はじめての統一集会。よびかけ人を代表して挨拶
1977年 5月 岩波書店会議室で日本原水協の草野信男理事長と「5・19合意」に署名。吉野源三郎氏ら7人が立ち合う。
1977年 8月 14年ぶりに開催された統一世界大会に出席、議長団を代表して挨拶
1978年 5月 「第1回国連軍縮特別総会」に参加するためニューヨークを訪問
1979年 3月 「ビキニ被災25周年ビキニデー広島集会」で主催者代表として挨拶
1980年 5月 「非核独立太平洋会議」に出席するためハワイを訪問。「非核太平洋人民憲章」を提案
1980年10月 「援護法制定促進広島県民集会」宮沢知事に要請
1980年12月 「原爆被爆者対策基本問題懇談会」の報告に対する抗議の県民集会で主催者として決意表明
1981年11月 「ヒロシマ語り部」としてドルムント平和集会に参加するため西ドイツを訪問。反核大集会で演説
1982年 3月 「82年・平和のためのヒロシマ行動」で演説
1982年 6月 第2回国連軍縮特別総会に参加のためニューヨークを訪問
1985年 5月 原爆白内障治療のため広島県病院に入院
1985年 6月 被爆者代表として中国を訪問。
1985年 7月 ソ連核実験に抗議して座込み(300回)
1985年 8月 「国際被爆者フォーラム」実行委員長。マーシャル、オランダ、イギリス、カナダ、マレーシアなどのヒバクシャが参加
1985年 8月 沖縄の国際連帯会議に参加
1986年 4月 85才の誕生日の翌日、仏核実験抗議の座込みの日にチェルノブイリ事故の報道に接する
1986年 8月 統一世界大会開催不可能に
1987年 9月 第1回核被害者世界大会に出席するためニューヨーク訪問
1988年 8月 「森瀧先生の米寿を祝い励ます会」開催
1989年 4月 青森県六ヶ所村で開催された「反核燃全国集会」を呼びかけ。核燃基地を包囲する「人間の鎖」の先頭にたつ
1990年 3月 原爆慰霊碑前での核実験座込みが500回に
1990年 9月 肋骨カリエスのため入院。肋骨一部切除、冷膿瘍摘出手術
1991年 4月 谷本清平和賞受賞。満90才、卒寿を迎える
1993年 7月 広島県被団協5年度総会に出席
1993年 7月 核実験抗議慰霊碑前座込み20周年記念に出席
1993年 8月 被爆48周年原水爆禁止世界大会開会総会で主催者あいさつ
1993年 8月 原爆死没者追悼慰霊式典で追悼の辞
1993年 8月 日赤原爆病院に入院
1993年11月 平和公園を散歩
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1994年1月25日、森滝市郎原水禁国民会議議長が92歳で死去
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『著書』に、『反核30年』(日本評論社刊)、『ヒロシマ40年―森瀧日記の証言』(中国新聞社刊)。共著に『非核未来に向けて』(績文堂)、『いのちとうとし』(広島県原水禁刊)など。

忌野清志郎さんが死んじまった2009/05/02

タイマーズの忌野清志郎
忌野清志郎が死んじまったよ。
ガンで闘病中だったことは知っていたけれど、58歳とはあまりにも早すぎる。再発がわかり秋のライブをキャンセルしたので心配はしていたけど、病状悪化の報道もなかったので、そのうちまた復活すんだろうくらいに思っていた。
06年7月にのどにがんが見つかった際も、がんを「新しいブルース」と表現し、「新しいブルースを楽しむような気持ちで治療に専念」すると前向きに病気と闘って、再発が分かったときも「このくらいのことは覚悟してたんで、ぜんぜんヘコんでないから。ブルースはまだまだ続いているというわけだ。すぐに帰ってくるから応援してくれ!」と書いた。しぶとく闘病するんじゃなかったのかよ。残念だよ。
最初に清志郎さんの曲に触れたのは、88年の『カバーズ』発禁騒動のときだった。反原発運動の中で「カバーズ」のコピーテープが出回ったのを聴いたのが最初。その後、タイマーズのヘルメットスタイルが、当時の僕の学生運動気分の琴線に触れてしばらくはよく聴いていた。でも、結局、当時は清志郎さんの歌は皮肉っぽく不真面目に聞こえて、もっとずっとストレートに感じられた浜田省吾の方に流れちゃったんだよね。
それが40を超して、なんか清志郎が分かるような気分になってきた頃には、もうがん闘病中。結局、ライブにも行ったこともないんだよね。間に合わなかったね。淋しいね。

<サマータイム・ブルース>

暑い夏がそこまで来てる
みんなが海へくり出していく
人気のない所で泳いだら
原子力発電所が建っていた
さっぱりわかんねえ、何のため?
狭い日本のサマータイム・ブルース

熱い炎が先っちょまで出てる
東海地震もそこまで来てる
だけどもまだまだ増えていく
原子力発電所が建っていく
さっぱりわかんねえ、誰のため?
狭い日本のサマータイム・ブルース

寒い冬がそこまで来てる
あんたもこのごろ抜け毛が多い (悪かったな、何だよ)
それでもテレビは言っている
「日本の原発は安全です」
さっぱりわかんねえ、根拠がねえ
これが最後のサマータイム・ブルース
(以下略)

原水禁顧問 前野良先生逝く2007/05/18

前野良先生
野崎哲(元原水禁国民会議事務局)

 原水禁国民会議顧問の前野良先生が、07年5月18日午前、肺炎で亡くなられました。94歳というご高齢でしたから、こういう日が来ることは覚悟をしていましたが、いざ現実になるとそのあまりに大きい空白に愕然とします。

 前野先生は、一兵士として動員され、広島湾の軍艦上で被ばくされました。さらに、その後の1ヵ月あまりの救護活動によっても被ばくされ、ヒロシマの地獄を見た生証人です。

 戦後は、長野大学、法政大学、東京経済大学などで教鞭をとる一方で、反核平和運動の先頭に立ち続けました。1955年の最初の世界大会から原水禁運動に参加。その後、ソ連の核実験を擁護する共産党系の原水協主流派に対抗して「いかなる核にも反対する」立場から論陣を張り、原水禁の創設に尽くされました。

 前野先生は、いかなる国の核も、軍事利用と平和利用も一切の「核」を区別せずに否定する原水禁の思想を理論化する上で中心的な役割を果たされ、原水禁常任執行委員、代表委員として活躍されました。反原発や韓国民主化運動等の様々な活動に加わり、幅広い活動家から信頼を集めました。政治学者としては、スターリニズムに批判的な立場から社会主義の政治経済の分析にあたり、グラムシや労働者自主管理運動の研究で知られました。

 私がはじめてお会いした87年頃は、すでに「雲の上」の大学者でしたが、まったく偉ぶらず、若造が挑む無謀な論争も軽んじることなく厳しく反撃されたものでした。時に本気で、時に諭すように。演説後の少年ような純粋な笑顔が今も目に浮かびます。
 核について一切の妥協を許さず、組織の都合や実務を理由にした言い訳を厳しく叱咤されたものですが、同時に相当な無理なお願いにも応えていただきました。

 前野先生。実は、私たちは先生にこっそりあだ名をつけていたのです。「前野不良先生」と。反核運動の為であれば、時に講義を休み、時に論文を後回しにして活動される様を、われわれ不肖の生徒たちが前野さんは「不良」教師だな、と深い敬愛の念とささやかな反抗心を込めて呼んでいたのです。前野先生は大学の教員であるというだけでなく、私にとって本当の意味で反核運動の先生でした。

 長い間、ありがとうございました。残念ながら「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」といえる状況ではありませんが、後は残された私たちががんばります。さぞかし心配でしょうが、どうぞ暖かく見守ってください。

(※原水禁ニュース2007年7月号掲載の文章に加筆)

右麻生と左麻生2006/08/26

 麻生太郎氏の口ってなんか歪んでるよね。ずっと皮肉っぽい気分で生きてきたのかねぇ。プリンスなのにね。どうでもいいんだけど右側だけと左側だけで顔を作ってみました。みんな結構左右は違うものなんだけど、こりゃかなり違うや。僕ってヒマだなあ。

麻垣康三っていうけれど…2006/07/23

 ポスト小泉の有力4候補は「麻垣康三」と言われてきた。麻生太郎(河野グループ)、谷垣禎一(谷垣派)、福田康夫(森派)、安倍晋三(森派)の4人で、政治評論家の有馬晴海氏による造語だそうな。その後、出馬表明した河野太郎氏を加えて麻垣康三郎っていわれたりもした。最有力とされているのが安部さんで、その対抗馬とされていたのが福田さん。二人は同派閥なのでどうなるかとも言われたけど、福田さんが出馬すれば森派外からも幅広く支持を集めて、いい勝負になるとも言われていた。その福田さんが7月20日に不出馬を表明、安部独走態勢に。あ~ぁ、安部晋三で決まりかぁ。まあ福田さんがそれほどいいとも思わないけどねぇ。
 タカ派色がハッキリしている安部さんが相手の方が、野党は戦いやすいという見方もあるけど、これはあまり賛同できない。左の勢力では「窮乏化革命論」っていって、労働者が困窮すればいずれ忍耐の限界に達して決起する=革命が起こるっていう無茶な理論が結構広く信じられていたけど、左の立場から安部政権の方がいいというのはこれに近いのではないか。政権党の政策が右に行けば行くほど批判が高まって揺り戻す? そうは言えないでしょう。確かに対立点を明確にしやすいし、批判もしやすい。でもそのまま、すーと右に行っちゃう可能性だって高いんだから、やっぱ少しでもハト派になるにこしたことはないんじゃないでしょうか。

 それにしても、そろいも揃って世襲議員ですね。
●小泉純一郎:3世(祖父が小泉又次郎、父が小泉純也)
●麻生太郎:5世(大久保利通―麻生太吉―吉田茂―麻生太賀吉/義父鈴木善幸)
●谷垣禎一:2世(父が谷垣専一)
●福田康夫:2世(父が福田赳夫)
●安倍晋三:3世(祖父が安倍寛・岸信介、父が安倍晋太郎)
●河野太郎:3世(祖父が河野一郎、父が河野洋平)
 対する民主党だって代表小沢さんも幹事長の鳩山さんも世襲議員。
○小沢一郎:2世(父が小沢佐重喜)
○鳩山由紀夫:4世(鳩山和夫―鳩山一郎―鳩山威一郎、弟が鳩山邦夫)
 別に世襲だからそれだけでいかんとは思わないけど、全部が全部世襲ばかりっていうのは、やはり世の中の実態を反映している面があるのじゃないでしょうか。これだけどみても、やはり機会均等な世の中とは言えない。再チャレンジもヘチマもないんじゃないの。