田英夫さん逝去2009/11/17

07年7月田さんと
 田先生が亡くなった。11月13日朝に亡くなり、故人の遺志で17日に親族のみで告別式を済ませたとのこと。訃報が流れたのはその後だ。1923年生まれ、享年86歳。
 本人の経歴やら業績なんかは、あちこちで振りかえるだろうから、あえて言う必要はないかもしれないけど記録的に簡単に。共同通信記者として東京裁判の取材に当たり、第一次南極観測隊員として報道を担当し、TBSに移って「ニュースキャスター」の草分けとして活躍。西側テレビとして初めてベトナム戦争下の北ベトナムを取材、反米的として政府・自民党の圧力で降版させられた反骨の有名ジャーナリスト。71年参議院全国区で192万票の大量得票でトップ当選し、社会党に所属して活躍。75年には楢崎弥之助氏らと「新しい流れの会」を結成するなどして党内官僚派グループとたたかい、77年選挙で2度目のトップ当選を果たした直後に離党。78年に社会民主連合を結成し代表となる。この辺の事情は相当複雑になるので党外の人にはほとんど理解不能かもしれません。83年に参院比例区で3選。89年には東京選挙区でトップ当選。95年は新党「平和・市民」から東京選挙区で当選。97年には社民党に入党した。01選挙ではいったん引退を決めるが、乞われて比例区で出馬し惜敗。03年に上位当選の田嶋陽子氏の辞職に伴って繰り上げ当選している。東京帝大入学直後に学徒出陣で徴兵され特攻隊に配属されたが、出撃命令を受ける直前に終戦を迎え、命拾いをした逸話もある。
 地盤も看板もカバンも受け継いでいないので世襲議員とはいわれないのだけど、祖父が貴族院議員や台湾総督を務めた田健治郎男爵。僕が直接知っている政治家の中で、唯一名望家政治家の雰囲気を感じさせてくれる人だった。
 僕は最晩年の田さんに大変お世話になった。99年に原水禁の役員を辞めて社民党に戻って、さーどうすっかなと思ってたところを、外交・防衛部会長だった田さんに呼ばれて政策審議会に来た。人事のことなのでどろどろした面はあるんだけど、いろいろある中で、田さんに引かれなければたぶん政審に移れたか分からない。その後、01年に落選するまで外交、平和、憲法問題などを事務局として担当させていただいた。
 直接に親しくしてもらうまでは、平和志向のリベラルな有名人かな、くらいに思っていたんだけど、実物は想像よりずっとすごい人だったよ。どこに出しても、誰にあわせても安心。いろんな人の思いを受け止めて、政治に昇華しちゃう。金大中やキュー・サムファンと仲良しかと思えば、「社会党の天下になったら野球、野球っていっておられるかどうか、わかりませんからね」と言って物議を醸したかの長嶋茂雄氏ともジャーナリスト時代からの仲良し。長嶋さんは選挙の応援にも来てくれてた。(※ちなみに社会党は野球を禁止しないことをコメント。後にキューバを訪問した長嶋さんは社会主義国で野球が盛んなことを見て、帰国後カストロやゲバラを絶賛していたらしい)
 戦中派として、ジャーナリストとして、政治家として、平和主義者として、左翼として、ヤンゴトナキ生まれの人としても、非常に幅の広い人脈をもっていた。対応は極めてリベラルに、信念はあくまで固く、政治家の中の政治家だったと思う。僕が知己を得たのは最晩年の一時期に過ぎないので、若くて元気のあった時代にはさぞかし力があっただろうなぁ、と思うな。
 01年にいったん落選して、03年に繰り上げで国会に戻ってこられたときには、党の外交・防衛部会長は今川正美議員が受け継いでいたし、参院の外防委員会も大田昌秀議員が担当されていたため、得意な分野を担当できず歯がゆかったかも知れない。僕も事務局的な関わりはごく薄くなって、時折、世間話をする程度となってしまった。逆に、このために党や国会の任務から解放されて、「特攻の語り部」として遺言を残せたという面はあるかも知れません。まだまだ話を聞きたいという要望は多かったので、もっともっとお元気で伝えて欲しかったという気持ちはありますが。まあ1人の人間の人生としてはかなり充実した一生だったのではないでしょうか。
 いずれにしても、田先生、本当にお世話になりました。心からご冥福をお祈りします。