棚から本マグロかよ…2009/11/02

中島みゆき
 中島みゆきが紫綬褒章を受章するそうです、2009年秋の褒賞、11月3日に発令とのこと。芸術やスポーツ、学問で功績を残したんだと。みゆきさん、あんたもか!
 本人曰く、「思いがけずうれしいことの表現に『棚からぼたもち』と申しますが、今の私の気持ちは、ぼたもちどころではございません。『棚から本マグロ』。これくらいの驚きでございます。 ふつう、何かをいただけそうな場合には、たちどころに受け取るのは少々はしたないので、まあ2度くらいは辞退して、それでもとおっしゃるならちょうだいするのが、日本人の奥ゆかしいマナーなのでございましょうが、このたびのような褒章となりますと、到底『ふつう』ではないことですので、辞退なんかしたら2度とこんな機会はないかもと思いまして、即座に『いただきます!』と、お返事してしまいました」だと。
 なんだよ~。中卒で仕事をもらえない女の子や、ガキのくせにと頬を打たれた少年たちを「ファイト」って小さく励ましながら闘ってきたんじゃなかったのか? 肩に国を乗せて足どりが遅くなっても背広の下にはロックンロールを隠していたんじゃなかったのか? 怒りもて石を握った指先は陛下から勲章を頂いて喜びに震え、怒りもて罪を穿った唇は「いただきます!」ですか? 社会の片隅で人知れず悔し涙を流している人々にエールを送ってきたんだとばかり思っていたよ。遅くてたどり着けなかったのかもしれないけど、学生運動の片隅にいたんだから。
 僕は、学生の頃、「ローリング」や「世情」や「誰のせいでもない雨が」を歌いながらオルグをしてきたんですよ。かつて中島みゆきファンの熊沢誠先生が、バブル期の労働者を「美貌の都」で振り向いてみたら「泣き笑顔」だった人々に例えたのをきいて、その「泣き笑顔」を笑顔にしようと思って、活動してきたんですよ。うーむ。「棚から本マグロ」で「いただきます」かよ…。まさに、「夢のなれの果てが転」ぶのを見た感じだ。

 65年にビートルズがMBE勲章を受章したときは、他の連中は戦争で人を殺したことで栄誉を受けているが、僕らは音楽で世界中の人を楽しませて勲章をもらう、とか皮肉の一つも言った。しかもジョン・レノンは、しばらくしてからアメリカの戦争支援を理由に勲章を突っ返したはずだ。まあ、結局もらうにしても、多少の逡巡くらいはしてほしかった。棚から本マグロでいただきます、じゃあなぁ~。本当にガッカリだ、「はしたない」よ。
 張富士夫(トヨタ自動車会長)や森山真弓(元官房長官)が授賞しても良かったね、くらいにしか思わないけど。神野直彦までもらってるんだもんなぁ。そんなにうれしいものなのかねぇ。まったく理解できない。

八ツ場ダム予定地に行った2009/11/08

国道付け替え橋の橋梁
 11月7日~8日、労働情報の三役で川原湯温泉に行ってきました。他の人は車で昼から行っているんだけど、僕は笠原さんの偲ぶ会があったので、夜に合流。笠原さんの会を早めに抜けさせてもらって、バイクで関越を一直線で約3時間。到着は9時で、すでに夕食は片付けられ、巨大おにぎりが遺されていました。結局、夜を徹して飲み且つ議論をしたので、駆けつけて良かったのですが。
 川原湯温泉というのは、今や注目の八ツ場ダム建設予定地にある温泉。ダムが出来ると沈んじゃうところなのです。8日は、せっかくなので吾妻渓谷とやんば館に。紅葉の最盛期は過ぎていたのだけど、吾妻渓谷って本当にきれいなところ。行ってみれば、これをダムに沈めちゃう(※吾妻渓谷の水没は一部)なんてトンでもない、って一瞬で理解できる。川原湯温泉も、想像していたよりずっと立派な温泉だ。ダムに沈めて平気だというのだから、もっとずーっと寂れた小さなところかと思っていた。こりゃダメだよ。
 これだけの自然環境と、人々の暮らしや歴史を、沈めてしまうというなら、相当の必然性が無いとダメでしょう。もちろん、ずーっと反対してきたけど国がごり押しして、しょうがないから渋々受け入れたら、こんどは勝手に止めますなんて、フザケンジャネーヨ、っていう人の気持ちもよく分かるけど。ここは、そういう経緯は経緯として、ここを本当にダムに沈めてしまってよいのか、本当にそれがどうしても必要なことなのか、他に手立てはないのか、公平に検証するべきだ。僕は、ダムについて専門的な知識はないけど、少なくとも素人目には、治水にしても利水にしても、この犠牲を払うほどの切迫性があるとは思えない。
 いずれにしても国のダム計画の翻弄されてきた人々に対する補償は当然しなくてはならないだろう。すでに移転した人でも希望する人には最低でも現状復帰まで保証すべきだし、希望しない人も新しい環境での生活の安定がえられるよう支援する必要がある。現状維持の人にも十分な慰謝と、ダム計画によって新規の投資が行なわず生活基盤が劣化していることを考慮して補償していくことが必要だ。それでも、本当に切迫した必要性がないのなら止めた方がいいよ。失うものが大きすぎる。とりあえず、そう思いました。
 どうも、皮肉なことに話題のスポットなっているようだ。やんば館という展示施設は、以前はたまにトイレを使いに寄る人がいる程度の状態だったそうだが、この間注目を浴びた結果で、大混雑していた。自治体議員のバッチをつけたオッサンたちを乗せたバスとか「共産党」ってプレートをつけたバスがぞろぞろ集まってきて、何だかな~と思った。まあ、よく考えてみれば、自分たちも物見遊山の域を出ないわけだからまったく同じなんだけどね。

必殺仕分け作業はじまる2009/11/11

事業仕分け
 11月11日、行政刷新会議の下で予算の無駄を洗い出す「事業仕分け」が始まった。国立印刷局市ヶ谷センター体育館で、そんなものが市ヶ谷にあったんだねー。
 27日まで計9日間にわたり、447事業の必要性について判断するとのこと。「仕分け人」の国会議員や民間有識者らが3班に分かれ、国や独法の事業について担当省庁から説明を受け、1項目あたり1時間程度をかけて各事業を、①廃止②地方自治体に移管③10年度予算での計上見送り④予算の縮減などに仕分ける。一般の人も先着順で傍聴ができ、インターネットでも生中継される。
 9日には、事業仕分けにあたる民間有識者56人も決定している。知ってる顔ぶれも何人かいますね。へぇ~、て感じ。「構想日本」の加藤秀樹代表が刷新会議の事務局長に就任したことで、かねて「構想日本」が提唱していた「事業仕分け」みたいなかとをやることは分かっていたわけだけど、想像していたより大きな規模で全面公開でやるということなので、成り行きが注目されるところ。
 ひとたび制度化されるとなかなか変わらなかった行政の予算のシステムに風穴があく可能性もあるかも知れないけど、ポピュリズムで人民裁判的にパンパン決めていくことで、地味で多くの人に容易に理解してもらうことは出来ないけど本当は必要な内容が見捨てられていくおそれも否定できない
 ところで、こんなの行政評価局(旧総務庁行政監察局)がしっかりやってればよかっただけのような気もするけど、やっぱり霞が関の仲間内では出来なかったのかなぁ。
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行政刷新会議ワーキンググループ評価者
(国会議員)
【全WG】
枝野幸男・衆議院議員

【第1WG】
津川祥吾・衆議院議員、寺田学・衆議院議員
【第2WG】
菊田真紀子・衆議院議員、尾立源幸・参議院議員
【第3WG】
田嶋要・衆議院議員、蓮舫・参議院議員

【全WG】
泉健太・内閣府大臣政務官、大串博志・財務大臣政務官
※事業仕分けの対象事業ごとに、担当府省の副大臣又は政務官の一人を指名
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(民間有識者)
【第1WG】
青木宗明・神奈川大学経営学部教授、安念潤司・中央大学法科大学院教授、井澤幸雄・小田原市職員、石渡秀朗・三浦市職員、石渡進介・弁護士、内田勝也・情報セキュリティ大学院大学教授/横浜市CIO補佐監、翁百合・(株)日本総合研究所理事、奥真美・首都大学東京都市教養学部都市政策コース教授、川本裕子・早稲田大学大学院ファイナンス研究科教授、田近栄治・一橋大学大学院経済学研究科教授/理事/副学長、辻琢也・一橋大学大学院法学研究科教授、富田俊基・中央大学法学部教授、新倉聡・横須賀市職員、ロバート・アラン・フェルドマン・モルガン・スタンレー証券(株)経済調査部長、福嶋浩彦・中央学院大学教授/前我孫子市長、政野淳子・環境行政改革フォーラム幹事

【第2WG】
飯田哲也・NPO法人環境エネルギー政策研究所所長、石弘光・放送大学学長、市川眞一・クレディ・スイス証券(株)チーフ・マーケット・ストラテジスト、長隆・東日本税理士法人代表社員、海東英和・前高島市長、梶川融・太陽ASG有限責任監査法人総括代表社員、木下敏之・前佐賀市長/木下敏之行政経営研究所代表、熊谷哲・京都府議会議員、河野龍太郎・BNPパリバ証券チーフエコノミスト、小瀬村寿美子・厚木市職員、露木幹也・小田原市職員、土居丈朗・慶應義塾大学経済学部教授、中里実・東京大学大学院法学政治学研究科教授、福井秀夫・政策研究大学院大学教授、船曳鴻紅・(株)東京デザインセンター代表取締役社長、松本悟・一橋大学大学院社会学研究科教員、丸山康幸・フェニックス・シーガイア・リゾート取締役会長、村藤功・九州大学ビジネススクール専攻長、森田朗・東京大学公共政策大学院教授、吉田あつし・筑波大学大学院システム情報工学研究科教授、和田浩子・Office WaDa代表

【第3WG】
赤井伸郎・大阪大学大学院国際公共政策研究科准教授、荒井英明・厚木市職員、小幡純子・上智大学法科大学院長、金田康正・東京大学大学院教授、伊永隆史・首都大学東京教授、高田創・みずほ証券金融市場調査部長チーフストラテジスト、高橋進・(株)日本総合研究所副理事長、中村桂子・JT生命誌研究館館長、永久寿夫・PHP総合研究所常務取締役、西寺雅也・山梨学院大学法学部政治行政学科教授、原田泰・(株)大和総研 常務理事チーフエコノミスト、速水亨・速水林業代表、藤原和博・東京学芸大学客員教授/大阪府知事特別顧問、星野朝子・日産自動車(株) 執行役員市場情報室長、松井孝典・東京大学名誉教授、南学・横浜市立大学エクステンションセンター長、山内敬・前高島市副市長/高島一徹堂顧問、吉田誠・三菱商事(株)生活産業グループ次世代事業開発ユニット/農業・地域対応チームシニアアドバイザー、渡辺和幸・経営コンサルタント/(株)水族館文庫代表取締役

天皇即位20年2009/11/12

天皇即位20年
 11月12日。天皇即位20年だそうだ。午後には国立劇場で政府主催の式典が開かれ、夕方には奉祝国会議員連盟など政財界の有志が主催した皇居前広場の「国民祭典」には、約3万人が集まったという。EXILEが奉祝歌「太陽の国」を歌い、森光子さんやWBC日本代表監督の原辰徳さん、宇宙飛行士の星出彰彦さんらが祝辞を述べた。天皇、皇后も二重橋に姿を見せた。
 実際の即位は昭和天皇が死んだ1989年1月7日だから、本当の即位20年は今年の1月7日。11月12日は10年前に即位10年の奉祝行事があった日。即位10年目に祝賀行事をする際に、1月7日は天皇崩御10年の「式年祭」と重なるため、天皇に縁の深い日を検討した結果、「即位の礼」(即位礼正殿の儀)が行なわれた11月12日になったということらしい。即位の礼が行なわれたのは90年(平成2年)11月12日にだから、ここを起点に考えるなら即位20年は来年の11月12日にやらないとならないわけだ。即位(89年1月)から20年目の年の19年前に「即位の礼」やった日が09年11月12日なんだわね。まあ、20年前のこの日に即位したわけではないということ。
 関係ないんだけど3週間くらい前に天皇と会ったわ。偶然なんだけど、半蔵門で信号待ちをしてたら、白バイやら黒塗りの車が問からぞろぞろっと出てきたの。ん、と思ってみてたら、そのうち1台が車の中の照明をつけて窓全開で出てきた。おー天皇が乗ってるわ。「へいかー」って言ったら、手を振ってくれたよ。まあ、誰彼無くずっと振り続けていたわけだけど。天皇さんもなかなか大変だ。それにしても、安全的には大丈夫なのかなぁ。それだけ日本はまだまだ治安がよいということかしら。

もみじ回廊に行ってきました2009/11/15

もみじ回廊
 11月15日、河口湖にもみじ狩りにいってきました。昨年も、一昨年も11月末の連休に行ったら、少ーし遅いかなーって感じだったので、今年は少し早めに行こうかと思っていた次第。本当は土曜日から行きたいと思っていたんだけど、雨が降ってへこたれたのと、夕方にはやん だものの学童クラブの父母会もあったので、どうせだから出ておこうかとも思ったので。
 母親は労弁の大会とかで鹿児島にいって不在なので、どうしても子どもを連れて行かないとならない。「もみじなんかわざわざ見に行きたくない。キレイだけど見てもつまらない」とごねる子どもを「ツリーハウスで遊んだ後でちょっと寄ろうね」と誤魔化して連れて行った。娘の友人もどうしても一緒に行くというので子ども2人連れで。
 子ども1人だとずーと相手をしないと行けないけど、友だちを連れて行くと2人で遊んでいてくれる間は、解放されるのでまだマシ。ヒロさんのドームハウスの内装がなかなかいい感じに出来ていてい、自分のところも内装をした方がいいのかな~とちょっと悩む。しばらく中断していたオガワさんのところも、ここ最近急ピッチで作業が進み、屋根がつき壁が立っていた。
 帰り際、もう暗くなっていたので、「もみじ回廊」に。ここはライトアップされているので、夜でもキレイなんだよね。子どもが堪えられないので、さーっと散策してから、近くの温泉によって帰る。10時過ぎても小仏は10キロ以上の渋滞。何とかして欲しいぜ。
 関係ないんだけど、2~3年前に流行った竹内まりやの「人生の扉」って楽曲があるんだけど、これを聞いて、確かに「満開の桜や色づく山の紅葉をこの先いったい何度見ることになるんだろう」な~と思って、忙しい忙しいといってるだけじゃなくて、ちゃんと毎年毎年花見やもみじ狩をしようじゃないか、と思ったわけなのです。


<人生の扉>
作詞:竹内まりや  作曲:竹内まりや

春がまた来るたび ひとつ年を重ね
目に映る景色も 少しずつ変わるよ
陽気にはしゃいでた 幼い日は遠く
気がつけば五十路を 越えた私がいる
信じられない速さで 時は過ぎ去ると 知ってしまったら
どんな小さなことも 覚えていたいと 心が言ったよ

I say fun to be 20
You say it's great to be 30
And they say it's lovely to be 40
Bue feel it's nice to be 50

満開の桜や 色づく山の紅葉を
この先いったい何度 見ることになるだろう
ひとつひとつ 人生の扉を開けては 感じるその重さ
ひとりひとり 愛する人たちのために 生きてゆきたいよ

I say it's fine to be 60
You say it's alright to be 70
And they say still good to be 80
But I'll maybe live over 90

君のデニムの青が 褪せてゆくほど 味わい増すように
長い旅路の果てに 輝く何かが 誰にでもあるさ
(以下略)

田英夫さん逝去2009/11/17

07年7月田さんと
 田先生が亡くなった。11月13日朝に亡くなり、故人の遺志で17日に親族のみで告別式を済ませたとのこと。訃報が流れたのはその後だ。1923年生まれ、享年86歳。
 本人の経歴やら業績なんかは、あちこちで振りかえるだろうから、あえて言う必要はないかもしれないけど記録的に簡単に。共同通信記者として東京裁判の取材に当たり、第一次南極観測隊員として報道を担当し、TBSに移って「ニュースキャスター」の草分けとして活躍。西側テレビとして初めてベトナム戦争下の北ベトナムを取材、反米的として政府・自民党の圧力で降版させられた反骨の有名ジャーナリスト。71年参議院全国区で192万票の大量得票でトップ当選し、社会党に所属して活躍。75年には楢崎弥之助氏らと「新しい流れの会」を結成するなどして党内官僚派グループとたたかい、77年選挙で2度目のトップ当選を果たした直後に離党。78年に社会民主連合を結成し代表となる。この辺の事情は相当複雑になるので党外の人にはほとんど理解不能かもしれません。83年に参院比例区で3選。89年には東京選挙区でトップ当選。95年は新党「平和・市民」から東京選挙区で当選。97年には社民党に入党した。01選挙ではいったん引退を決めるが、乞われて比例区で出馬し惜敗。03年に上位当選の田嶋陽子氏の辞職に伴って繰り上げ当選している。東京帝大入学直後に学徒出陣で徴兵され特攻隊に配属されたが、出撃命令を受ける直前に終戦を迎え、命拾いをした逸話もある。
 地盤も看板もカバンも受け継いでいないので世襲議員とはいわれないのだけど、祖父が貴族院議員や台湾総督を務めた田健治郎男爵。僕が直接知っている政治家の中で、唯一名望家政治家の雰囲気を感じさせてくれる人だった。
 僕は最晩年の田さんに大変お世話になった。99年に原水禁の役員を辞めて社民党に戻って、さーどうすっかなと思ってたところを、外交・防衛部会長だった田さんに呼ばれて政策審議会に来た。人事のことなのでどろどろした面はあるんだけど、いろいろある中で、田さんに引かれなければたぶん政審に移れたか分からない。その後、01年に落選するまで外交、平和、憲法問題などを事務局として担当させていただいた。
 直接に親しくしてもらうまでは、平和志向のリベラルな有名人かな、くらいに思っていたんだけど、実物は想像よりずっとすごい人だったよ。どこに出しても、誰にあわせても安心。いろんな人の思いを受け止めて、政治に昇華しちゃう。金大中やキュー・サムファンと仲良しかと思えば、「社会党の天下になったら野球、野球っていっておられるかどうか、わかりませんからね」と言って物議を醸したかの長嶋茂雄氏ともジャーナリスト時代からの仲良し。長嶋さんは選挙の応援にも来てくれてた。(※ちなみに社会党は野球を禁止しないことをコメント。後にキューバを訪問した長嶋さんは社会主義国で野球が盛んなことを見て、帰国後カストロやゲバラを絶賛していたらしい)
 戦中派として、ジャーナリストとして、政治家として、平和主義者として、左翼として、ヤンゴトナキ生まれの人としても、非常に幅の広い人脈をもっていた。対応は極めてリベラルに、信念はあくまで固く、政治家の中の政治家だったと思う。僕が知己を得たのは最晩年の一時期に過ぎないので、若くて元気のあった時代にはさぞかし力があっただろうなぁ、と思うな。
 01年にいったん落選して、03年に繰り上げで国会に戻ってこられたときには、党の外交・防衛部会長は今川正美議員が受け継いでいたし、参院の外防委員会も大田昌秀議員が担当されていたため、得意な分野を担当できず歯がゆかったかも知れない。僕も事務局的な関わりはごく薄くなって、時折、世間話をする程度となってしまった。逆に、このために党や国会の任務から解放されて、「特攻の語り部」として遺言を残せたという面はあるかも知れません。まだまだ話を聞きたいという要望は多かったので、もっともっとお元気で伝えて欲しかったという気持ちはありますが。まあ1人の人間の人生としてはかなり充実した一生だったのではないでしょうか。
 いずれにしても、田先生、本当にお世話になりました。心からご冥福をお祈りします。

ツリーハウス 支柱追加の準備2009/11/22

ツリーハウスデッキ裏
 11月21日。続けて今週も河口湖に行った。子どもは「絶対に付いていきます」とか宣言していたんだけど、寒いし連れて行くと相手をしないといけないので大変だしで、なんとか振り切った。土~日はハギさんやオガワさんが来るというので、土曜夕につくようしようと思ったのだけど、首都高が思ったより渋滞していて着いたのは9時過ぎになってしまった。淋しそうにしてたら、ハギさんが付き合ってくれて、一杯。
 その後、自分の小屋に戻って寝たが、11月末だとさすがに寒いわ。とくにうちらのツリーハウスは断熱・内装をしていないので、ファンヒータで暖めてもすぐに熱が漏れてしまうのだわ。20度くらいに暖めて、0度まで冷えるの繰り返しをしながら朝まで耐え抜いた。これは子どもを連れてこなくてよかったよ。
 翌日はたき火をしながら支柱を追加する準備。デッキの底にジャッキを挿んだ木材を付けて、真下にコンクリの固まりを埋めて、以前から確保していた丸太をその長さに切る。防腐等のために切り口をバーナーで炭化させたり、薪を拾ったりしながら、ちんたらちんたらやっていたら1日かかってしまった。
 昼飯はコロモさんが作ってくれたドライカレーをご相伴させていただいた。ハギさん達と入れ替わりのように現れたヒロさんとしばらく駄弁ってたら暗くなってきたので作業終了。どのみち丸太を実際に立てるのは、マンパワーが必要なので、人が大勢いるときにやるしかない。帰りは温泉寺で風呂に入って帰る。この時期、長距離のバイク移動はさすがに寒い。

義妹が結婚2009/11/28

新婦の姪(うちの娘)と新郎の姪がフラワーガール
 11月28日、義妹の結婚式。
 前日から義妹の母、祖母、従兄弟カップル、叔父さん等が上京してきて、うちのマンションに泊まる。僕は披露宴途中で抜け出して、沖縄に行くことになっていて、その準備もあっててんやわんやだ。
 僕ら結婚式もなにもやらなかったから実感はわかないけど、ああいう儀式はほんとうに大変だね。あんだけ苦労して「結婚」とやらをすれば、面倒でもう一度やろうという気になりづらいという抑止効果があるかも。
 アメリカで写真を勉強してNY暮らしをしていた奔放な義妹と、裁判所書記官を絵に描いたようなガチガチ頭のダンナ。アンバランスな組み合わせに、うまくいくのか周囲の意見は割れていますが、まあ末永くお幸せに。と心から祈っております。

社民党全国専従者交流会 in OKINAWA2009/11/29

辺野古です
 11月28日から30日まで、沖縄で党の全国専従者交流会。僕は93年入局だが、記憶にある限り、こういう企画は初めてだと思う。正規の書記局だけじゃなく、パート・アルバイトも含めた中央・地方のスタッフをみんな連れて行くという太っ腹な企画だ。もちろん党には金がないので、長年にわたって専従者が積み立ててきた共済会の余裕資金を使うとのこと。
 同日程で香川で「全国青年議員・青年党合宿交流会」というイベントが重なったため、若いスタッフのなかには参加できなくなってしまった人もいて、気の毒だった。なんとか調整できなかったのかよ?という気はするが、そういうところが社民党らしいところだ。
 まあ、そうはいっても、党を支える専従者がこうやって交流することはよいことだよ。実際、同じ党を支える専従スタッフといっても、担当分野や地域が違えばほとんど会うこともないわけで、こういう機会でもないとなかなか接点がない。名前と顔が一致しない人、初めて見るような人も結構大勢いて、小さくなったとはいえまだまだいろんな人が支えているんだなあ、ということを実感した。
 実は、僕は、義妹の結婚式があって初日は遅れて合流。みんなは幹事長の話を聞いたり、沖縄戦の話を聞いたりと、座学をしていたところをすっ飛ばして、懇親会からの参加。いやー申し訳ない。2次会、3次会と遅くまで懇親を重ねる。これじゃ、ただ飲みに来ただけだな。
 2日目は二日酔いをこらえながら、辺野古、嘉手納基地、普天間基地を視察し、首里城を見学。夜は国際通りでまたまた懇親。

社民党全国専従者交流会 in OKINAWA 3日目2009/11/30

イルカのショー
 全国専従者交流会の3日目は、南部戦跡やひめゆりの塔、平和の礎(いしじ)・資料館を回るグループと、自由行動組に分れる。南部の戦跡関係はたびたび行っているし、多人数でバスで回るのもなんだと思って、同僚数名とフリーで動くことにした。
 結局、希望を出し合って、美ら海水族館に行くことに。レンタカーを借りて、僕が運転。沖縄のレンタカーは安いね。500円のガソリン券付で3900円。軽ならもっと安かったんだけど、長時間乗るので普通車に。美ら海水族館は秋に家族旅行したときも来たし、ぼく自身は何度も行ってるんだけど、まあ女性陣の希望が強かったし、また行くのもいいかなと。
 ご機嫌にイルカの沖ちゃんショーを見ていたら、議員から電話。明日までにメモを作れとか言ってるが、そんなこと言ったって資料も何にもないし、東京に帰るのは深夜だしなーと思いながら、適当にハイハイと。
 マナティを見て、水族館一通り見てから、名護の古民家風のそば屋「大家(うふやー)」に行って昼飯を食う。本当はどこか城(ぐすく)くらい寄るかと思ってたんだけど、時間がもあまりないのでそのまま那覇に帰る。本部はちょっと遠いんだよね。他の人は飛行機の時間が僕より早かったので、空港に送り届けてから1人で車を返して、国際通りをぶらぶら。
 子どもが、お父さんだけ沖縄に行ってずるいと怒っていること必至だったので、いろいろお土産を仕込んで帰ったのでした。